墜ちた王冠
運命のレクイエム海峡を目前にした夜。 旗艦「紅蓮号」の船内は、死の静寂ではなく、もっと醜悪な「狂気」に支配されていました。
「やはりだ! 貴様ら、アージェントと通じておるのだろう!」
バンッ! と乱暴に扉が蹴破られ、テオドラ王妃様の寝室に土足で踏み込んできたのは、クラウディウス国王とマリウス卿でした。
二人の目は充血し、酒と脂汗の酷い臭いをさせていました。
私が昼間、ユリウスからの隼を受け取ったことを聞きつけ、疑心暗鬼に陥ったのです。
「陛下、何を……! 此処は王妃様の寝所ですよ!」
「うるさい、侍女風情が!」
マリウス様が私を乱暴に突き飛ばしました。
私は床に倒れ込み、悲鳴を上げるルシアン王子を抱きしめるテオドラ様の前に立ち塞がろうとしました。
しかし、国王の手には抜き身の剣が握られていました。
「退け! その化け物を渡せ!」
「陛下……正気なのですか!?」
「正気だと!? 正気になどなれるか! この船はもう終わりだ! だが、この女と、海神の種を宿したこの赤子を差し出せば、アージェントも矛を収めるはずだ!」
国王は、切っ先を妻であるテオドラ様に向けました。 その顔は、かつての威厳など欠片もなく、ただ「死にたくない」と泣き叫ぶ子供のように歪んでいました。
「余は王だぞ! 選ばれた人間なのだ! こんな呪われた一族と心中などしてたまるか! おいテオドラ、立て! お前が犠牲になれば、余は助かるのだ!」
テオドラ様は、見えない瞳で夫の方を向き、哀れむように首を傾げました。
「……可哀想な方。 あなたは最後まで、王冠の重さではなく、自分の命の重さしか分からなかったのですね」
「黙れ! 偉そうに説教するな、この冷血女が!」
逆上した国王が剣を振り上げた、その時です。
「――騒々しいな」
ヒュッ、と空気が凍りつきました。 国王の剣が、見えない力に押さえつけられたように、ピタリと止まります。
扉の陰から、トリスタン公爵が姿を現しました。
彼は病的なまでに青白い顔をしていましたが、その瞳には、国王たちをゴミ屑のように見下す、絶対的な冷徹さが宿っていました。
「ト、トリスタン! 貴様、余に剣を向ける気か!」
「剣などいらない。……汚れるからな」
トリスタン様が指を軽く振ると、国王とマリウス様の体が宙に浮き、見えない鎖で縛られたように壁へと叩きつけられました。 カラン、と王剣が床に落ち、虚しい音を立てました。
「ひぃっ!? 放せ! 余は王だぞ!」
「弟よ、乱心したか! 私は当主だぞ!」
二人は手足をバタつかせて喚きましたが、トリスタン様はあくびを一つして、冷淡に告げました。
「王? 当主? ……笑わせるな。 貴様らはただの『荷物』だ。怯えて泣き叫ぶだけの、燃えない粗大ゴミだ」
「な、なんだと……!」
「今まで生かしておいたのは、兵たちの士気を保つための『御輿』として価値があったからだ。 だが、もはや貴様らの醜態は害悪でしかない。 ……船底の独房へ行け。そこで震えていろ」
トリスタン様が顎でしゃくると、控えていた衛兵たちが無言で二人を引きずっていきました。
彼ら衛兵もまた、国王の浅ましさに愛想を尽かしていたのです。
「放せ! 母上! 母上、助けてくれぇぇッ!」
マリウス様の情けない悲鳴が廊下に響きました。
その様子を、廊下の角でオクタヴィア大公妃がじっと見ていました。 彼女は、助けを求める息子の視線から、静かに顔を背けました。
「……連れて行きなさい」
「母上……っ!」
「お前は、ヴァーミリオンの恥だ」
鉄の女帝の声は震えていました。 彼女は息子を見捨てたのです。
いいえ、彼女自身が甘やかして育ててしまった「失敗作」を、自らの手で切り捨てたのです。 引きずられていく二人の声が消えると、大公妃はその場に崩れ落ちそうになり、私が慌てて支えました。
「……大公妃様」
「大丈夫だよ。……これでいい」
大公妃は杖を握り直し、老いた顔を上げました。
「これで、この船には『死にぞこない』と『罪人』しかいなくなった。 ……やっと、地獄へ行く準備が整ったようだね」
トリスタン様が、床に落ちた王冠を拾い上げました。 そして、それを無造作に窓の外へ――暗い海へと投げ捨てました。
「王権は終わりだ。 ここから先は、我々だけの戦争だ」
誰もそれを止めませんでした。
王冠を否定した瞬間、私たちは「アウレリア王国の正規軍」から、誇り高き「滅びゆく一族」へと生まれ変わったのです。
窓の外では、潮の流れが激しさを増し、轟音を立て始めていました。 ついに到着したのです。 生きては戻れぬ最後の戦場、「レクイエム海峡」へ。




