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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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敵将からの恋文

シレーヌ島を脱出した船団は、西へ西へと逃れ、ついに世界の果てにある「レクイエム海峡」の入り口まで追い詰められていました。


ここは潮流が激しく、一度入れば二度と戻れないと言われる死の海域。


兵士たちの士気は地に落ち、船上はまるでお通夜のような静けさに包まれていました。




そんな沈黙を破ったのは、一羽の鳥でした。 アージェントの山岳にしか生息しないはずの、純白の隼が、強い海風を切り裂いて飛来し、旗艦「紅蓮号」のマストに舞い降りたのです。 その脚には、銀色の筒が結ばれていました。


「……殺すな。使い魔だ」


弓を構えた兵士たちを制したのは、トリスタン公爵でした。 彼は隼を手招きし、脚の筒を解くと、複雑な表情で私の方を見ました。



「セシリア。君宛てだ」


「私、ですか……?」


「ああ。魔力で封がされている。『風』の魔力だ。私や兄上が開けようとすれば爆発するが、君なら開くよう設定されているらしい」



トリスタン様は、その筒を私に放りました。


受け取った瞬間、指先に微かな温かさを感じました。


それは、凍てつくような殺気を纏っていたあの銀色の騎士が、心の奥底に隠し持っていた残り火のような体温でした。



私は震える手で封を開き、中の羊皮紙を広げました。 そこには、走り書きのような、けれど力強い筆跡で、こう記されていました。



『セシリア。  この手紙が届く頃、君たちはレクイエム海峡へ向かっているだろう。  そこへ行ってはいけない。あの海峡は袋小路だ。入れば最後、我々は全軍で海を封鎖し、殲滅戦を行うことになる。』


息が止まりそうになりました。 これは降伏勧告ではありません。ユリウスからの、個人的な「懇願」でした。



『俺には、王や大公妃を助けることはできない。一族の悲願である復讐を止める権限もない。  だが、君だけなら救える。  今夜、海峡の東にある小島に小船を出せ。俺が手引きをする。  君をアージェントへ連れ帰り、新しい名前と身分を用意する。二度と剣を持たず、花を育てて暮らせる場所を約束する。』



文面から、彼の必死な叫びが聞こえてくるようでした。


シレーヌ島で私を見逃した時と同じ。


彼は、敵将としての立場を裏切ってでも、私を生かそうとしているのです。



『頼む。生きてくれ。  俺の手で、君を殺させないでくれ。』



視界が涙で滲みました。 なんて甘くて、愚かな人なのでしょう。 彼は知らないのです。私がもう、引き返せない場所にいることを。



「……愛されているな、セシリア」



背後で、トリスタン様が海を見つめたまま呟きました。 彼はワインボトルの底に残った澱を揺らしながら、自嘲気味に笑いました。



「行けばいい。  この船はもう沈む。泥舟に乗っているのは、我々『ヴァーミリオンの罪人』だけで十分だ。 君には何の罪もない。あっち側(生者の世界)へ行く権利がある」



それは、公爵からの実質的な「解雇通告」であり、最後の優しさでした。


今ならまだ間に合う。この小舟に乗り換えれば、私は暖かい暖炉と、愛する人の腕の中へ帰れる。


私は羊皮紙を胸に抱きしめ、一度だけ目を閉じました。 ユリウスの不器用な優しさ、初めてダンスを踊った夜の手の温もり。それらが走馬灯のように駆け巡ります。



でも、目を開けた時、私の視線の先にはテオドラ王妃様の部屋がありました。 光を失い、夫に疎まれ、それでも「海神の生贄」として気丈に振る舞う、孤独な私の主。


もし私が去れば、最期の瞬間に誰が彼女の手を握るのでしょうか。誰が彼女の冷たい身体を抱きしめるのでしょうか。



「……トリスタン様」


「ん?」


「火を、お借りできますか」



トリスタン様は少しだけ目を見開き、無言でランタンを差し出しました。 私は羊皮紙の端を火に近づけました。 炎が紙を舐め、ユリウスの言葉が、私の名前が、灰になって崩れていきます。


「……馬鹿な女だ」


トリスタン様が、哀れむように、しかしどこか嬉しそうに呟きました。


「ええ。私は、あの冷たい手をした王妃様の、たった一人の共犯者ですから」



燃え尽きた灰を、海風がさらっていきました。 灰は海へ落ち、波に溶けて消えました。


それは、私が人間としての幸せを捨て、ヴァーミリオンの一員として運命を共にするという誓約書でもありました。


隼が、悲しげな鳴き声を上げて飛び立っていきました。 主人のもとへ帰るあの鳥は、伝えるでしょう。「彼女は来ない」と。



「……セシリア。後悔するぞ」


「はい。きっと、死ぬ瞬間まで後悔すると思います」



私は涙を拭い、微笑みました。 これでいいのです。 ユリウス、あなたは私を殺しなさい。


それが、私たちが選んだ愛の形なのですから。



西の空が赤く染まり、不吉なほど美しい夕焼けが、死に場所となるレクイエム海峡を照らしていました。




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