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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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銀色の逆落とし

その朝、シレーヌ島は濃い霧に包まれていました。


渦潮の轟音だけが響く静寂の中、見張り台の兵士たちはあくびを噛み殺していました。


誰もが思っていたのです。「敵は船で来る」と。


トリスタン公爵が海上に完璧な迎撃結界を張り、渦潮という天然の堀がある以上、正面からの侵入は不可能だと。


けれど、彼らは忘れていました。 アージェント王国が「風」と「山」の民であることを。




「……セシリア。風の音が、変よ」


王妃様の着替えを手伝っていた時、不意にテオドラ様が天井を見上げました。 彼女の光を失った瞳が、小刻みに震えています。


「海からの風じゃない。……山の上から、『獣』たちが降りてくる音がする」


「山の上? まさか……この砦の背後は断崖絶壁ですよ?」



風の音ではありません。


それは、幾千もの刃が空気を削り取る、絶望の咆哮でした。


断崖を真っ逆さまに降りてくる銀色の光点は、まるで降り注ぐ流星の雨。重力を嘲笑うかのように空を舞う彼らの背後には、半透明の光の翼が揺らめいていました。


それはアージェント王国の秘儀、風霊との契約による『天駆』。


防衛結界が海の底を見張っている間に、死神たちは天から、最短距離で我らの喉元へと刃を突き立てたのです。


ヒュオォォォッ!! という鋭い風切り音と共に、天井の石板が粉々に砕け散りました。



「な、なんだ!?」 「敵襲! 敵襲ーッ!」



悲鳴と共に窓の外を見ると、私は信じられない光景に息を呑みました。


砦の背後にそびえ立つ、垂直に近い断崖絶壁。 その頂上から、白銀の鎧をまとった騎士たちが、「風」に乗って滑空し、降り注いできたのです。


彼らは背中に風の精霊魔法で練り上げた「見えざる翼」を纏い、重力を無視した速度で、ハヤブサのように砦の庭へと着地しました。


馬ではなく、風魔法で強化された脚力で、石壁を駆け下りてきたのです。



「ありえない……! 空から降ってきたぞ!」 「防衛結界は海側にしかない! 背後はがら空きだ!」



ヴァーミリオンの騎士たちが慌てて剣を抜きますが、遅すぎました。 着地と同時に、銀色の騎士たちは旋風のような速さで斬り込みます。


その先頭に立つ男を見て、私の心臓が早鐘を打ちました。


銀色の髪。銀色の仮面。そして、凍てつくような蒼氷の瞳。 ユリウス・アージェント王子。 彼がついに、死神として舞い降りたのです。



「――蹴散らせ!」


ユリウスの短く冷徹な命令一下。


彼が振るった剣から「カマイタチ」のような真空の刃が飛び、装飾過多な「仮の王宮」の門を紙のように切り裂きました。



「ひ、ひぃぃぃッ! ユリウスだ! 銀色の悪魔だ!」 「余の王宮が! 余の再興計画がぁぁ!」



寝巻き姿のマリウス卿とクラウディウス国王が、腰を抜かして広間から這い出してきました。 昨夜までの威勢はどこへやら、彼らは味方の兵を押しのけて、我先にと港へ逃げ出します。



「……ハッ、やってくれる」


混乱の極みにある中庭に、トリスタン公爵が現れました。


彼は空から次々と降り注ぐ敵兵を見上げ、感嘆と絶望が入り混じった笑みを浮かべました。



「海を知り尽くした我々の裏をかき、海を捨てて空から来るとはな。  ……常識外れにも程があるぞ、山猿どもめ」



トリスタン様の周囲に展開された水流の盾が、着地の衝撃波で激しく波打ちます。


彼の計算高い瞳には、盤上が一瞬でひっくり返されたことへの屈辱と、それを上回る冷徹な称賛が混ざり合っていました。


山岳民族としての野性と、洗練された魔導が融合したその奇襲は、富に溺れ、大地に根を張ることを忘れたヴァーミリオンへの、これ以上ない皮肉でした。



「……計算外だよ。美学のかけらもないが、最悪の正解だ」


トリスタン様は、即座に杖を振るい、水流の壁を作って敵の突撃を阻みました。


しかし、その表情には焦りが見えました。 海上の罠は完璧でしたが、陸上戦、それも乱戦になってしまえば、個々の戦闘能力である魔法と剣技に勝るアージェント軍に分があります。




「セシリア! テオドラと陛下を連れて船へ走れ!」


トリスタン様が叫びました。


「ここは捨てる! 欲張って荷物を積もうとするな、命だけ持って逃げろ!」


「は、はい!」



私はテオドラ様の手を引き、ルシアン王子を抱きかかえて走りました。


廊下は逃げ惑う貴族と、それを狩るアージェント兵で溢れかえっています。 美しいタペストリーに血飛沫が飛び、宴の残り物が踏み荒らされていく。


「仮初めの栄華」は、わずか数十分で瓦礫の山へと変わりました。


「逃がすな! ヴァーミリオンの魔女を捕らえろ!」



敵兵の一人が、テオドラ様に気づいて襲いかかってきました。 私が短剣を抜こうとした瞬間、一陣の風が吹き抜け――その敵兵が吹き飛ばされました。


目の前に、銀色の仮面の男が立っていました。 ユリウス。


彼は血濡れの剣を下げたまま、私たちを見下ろしていました。


その瞳が、私と、私の背後にいるテオドラ様を捉えます。




「……セシリア」


戦場には似つかわしくない、静かで痛切な声で、彼は私の名を呼びました。


剣を上げれば、私たちなど一瞬で殺せる距離。 けれど、彼は動きませんでした。仮面の奥の瞳が、激しく揺らいでいます。



ユリウス様の纏う風には、焼き付くようなオゾンの匂いと、拭い去れぬ鉄錆の香りが混じっていました。私の『魔眼』が捉えたのは、彼が背負う数千の部下の期待と、私一人に向けられた独りよがりな情愛の、残忍なまでのせめぎ合い。


彼が道を空けたその瞬間、彼の研ぎ澄まされた銀色のオーラが、痛切にひび割れたのを私は見ました。


彼もまた、私を逃がすことで、自らの正義を一つ殺したのです。



「行け」


彼は短く告げると、あろうことか味方の兵士が来る方向へ、わざと剣から風圧を放ち、進路を妨害しました。


「……っ! ありがとうございます!」



私は彼に背を向け、テオドラ様の手を引いて駆け出しました。


背後で、ユリウスが他の敵兵に何か指示を出している声が遠ざかります。


彼は、一族の悲願である復讐よりも、私への情けを優先してしまった。 その甘さが、彼自身をどれほど苦しめることになるのかを知りながら。




港へ辿り着くと、そこは地獄絵図でした。 我先にと船に乗ろうとする貴族たちが海へ突き落とされ、燃え上がる砦からは黒煙が空を覆っています。


「出航だ! 早く出せ! 余を置いていく気か!」


国王の怒号と共に、錨が切られました。


シレーヌ島――私たちの最後の拠点は、炎の中に遠ざかっていきます。



船上でへたり込む私の視界の先、燃える砦の頂上に、一人の銀色の騎士が立っているのが見えました。


彼はもう、私たちを追ってきません。 ただ、燃え落ちる「ヴァーミリオンの夢」を、冷ややかに見送っているだけでした。




これで、私たちは帰る場所も、足をつける大地さえも失いました。


残されたのは、西の果てにある海峡――死者たちの魂が集う場所だけ。 物語は、いよいよ最後の舞台へと流されていきます。




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