深淵の聖母
シレーヌ島の夜風は、海水の塩分を含んで重く、肌に張り付くようでした。
「仮の王宮」の喧騒から離れたテオドラ王妃様の居室。そこは、かつて海賊の武器庫だった場所を改装した、冷たく静かな石造りの部屋でした。
私は、窓辺の椅子に座る王妃様の髪を梳いていました。
月明かりが差し込んでいますが、テオドラ様はもう、月の方を向いてはいませんでした。
「……セシリア。今日は、海が凪いでいるのね」
「はい。鏡のように静かです」
「そう。……波の音が、子守唄のように聞こえるわ」
王妃様の瞳は、美しい深海色のまま、完全に光を失っていました。
今の彼女に見えているのは、現実の景色ではなく、魂が惹かれている「あちら側」の風景だけなのでしょう。
その時、重厚な扉が軋み、オクタヴィア大公妃が入ってこられました。 いつもの杖をつく音。
しかし、その足取りは心なしか重く感じられました。
「……テオドラ。起きているかい」
「ええ、お母様」
大公妃は、部屋の隅にある揺り籠へ近づきました。
そこには、ルシアン王子がすやすやと眠っています。
大公妃は、眠る孫の頬を、節くれだった指でそっと撫でました。
その手つきは、恐るべき怪物に触れるようであり、同時に、目に入れても痛くない愛し子に触れるようでもありました。
「……大きくなったね。日に日に、人間離れしていく」
大公妃がポツリと漏らしました。
ルシアン様の髪は、月光を浴びて淡く発光し、その肌には微かに鱗のような光沢が浮かんでいます。
「あの馬鹿な夫(国王)が、喚いていたよ。『余はあの女に指一本触れていない! あの子は悪魔の子だ!』とな」
大公妃は冷ややかに笑いましたが、その目には暗い影が落ちていました。
「……あながち、間違いではないさ。 ねえ、テオドラ。お前、分かっているのだろう?」
「はい」
テオドラ様は、見えない目で虚空を見つめ、静かに微笑みました。
「この子は、陛下のお子ではありません。 ……あの日、夢の中で海神(あの方)が私に口づけをした翌朝、私のお腹に小さな『海』が宿りましたから」
処女受胎。 神との婚姻の証。 人間の男を知らぬまま、海神の魔力によって身籠った子。
それがルシアン様でした。 国王が恐れるのも無理はありません。
妻は、自分の目の前で、人知を超えた存在によって汚され(あるいは祝福され)、異形の神の子を産み落としたのですから。
「……業が深いねえ、私たちは」
オクタヴィア大公妃は、ふらりとテオドラ様のそばへ歩み寄り、その冷たい手を両手で包み込みました。
鉄の女帝の手が、微かに震えています。
「許しておくれとは言わないよ。 お前を神への生贄として育て、孫までも怪物にしてしまった。私は、地獄へ落ちても償いきれない母親だ」
それは、今まで誰も聞いたことのない、大公妃の弱音でした。
夫バルバロッサの野望を支え、一族を統率するために心を殺し続けてきた彼女が、終わりの時を前にして、初めて「ただの母」に戻った瞬間でした。
「お母様」
テオドラ様は、母の手を握り返しました。 氷のように冷たい娘の手と、老いて乾いた母の手。
「謝らないでください。……私、幸せなのです」
「え……?」
「だって、この冷たい身体のおかげで、私は誰よりも深く海神(あの方)と繋がれる。 そして何より……貴女が私を産んでくださらなければ、私はこの『深淵の愛』を知ることもありませんでした」
テオドラ様の声には、一点の曇りもありませんでした。 彼女は、自分が背負わされた過酷な運命さえも、愛する神へ近づくための道程として、すべて肯定していたのです。 そのあまりにも純粋で、狂気じみた聖性に、私は言葉を失いました。
「……お前は、強い子だね。私なんかより、ずっと」
大公妃は、涙をこらえるように顔を歪め、娘の額に口づけを落としました。
「もう少しだ。……もう少しで、すべて終わる。 そうしたら、お前はお前の愛する場所へお行き。誰にも邪魔はさせないよ」
「はい、お母様」
二人は寄り添い合っていました。 言葉数は少なくても、そこには確かに、同じ罪と罰を背負った母娘だけの、血よりも濃い絆がありました。
私は、揺り籠の中のルシアン様を見つめました。 この幼き御子は、神と人との架け橋となる希望なのか、それとも一族を滅ぼす最後の引き金なのか。
静かな寝息だけが、その答えを知っているようでした。
シレーヌ島の夜明け前。 嵐の前の静けさの中で、ヴァーミリオンの女たちは、互いの体温を分け合うように、束の間の安らぎを貪っていました。




