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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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シレーヌ島の星音

帝都を逃れ、ようやく辿り着いたレクイエム海峡の玄関口、シレーヌ島。


かつての領主の別邸を徴用した仮王宮の窓からは、今宵もまた、海風に乗って耳を覆いたくなるような喧騒が漏れ聞こえていました。



「さあ、飲め! 勝利の女神は、まだ我らを見捨ててはおらぬ!」


「アージェントの白銀騎士団など、この海峡の渦潮に沈めてくれるわ!」



マリウス様の尊大な怒号と、それに媚びへつらう貴族たちの笑い声。そして、それらを虚しく肯定するように重なる、国王陛下の力ない、けれど絶え間ない笑い。


アージェントの軍勢が目と鼻の先まで迫り、帝都が灰に帰したというのに、彼らはまだ、略奪した酒と数枚の金貨に縋り、滅びを忘れるための滑稽な宴を演じ続けているのです。


その熱っぽく、腐りかけた「生の匂い」が漂う窓の外とは対照的に、厚い石壁に隔てられた王妃様の寝室だけは、まるで深い潮溜まりのように静まり返っていました。



月光が青白く差し込む部屋の隅で、テオドラ様は天蓋付きの寝台に身を預け、窓の外から響く喧騒を、まるで遠い異世界の出来事のように、表情もなく見つめていらっしゃいました。



「……セシリア、カーテンを。あの醜い音を、一欠片も入れたくないわ」


テオドラ様の掠れた声に、私は重厚なベルベットのカーテンを引き絞りました。外の狂乱は厚い布に遮られ、部屋は再び、月の光と一振りの蝋燭の炎だけが支配する静寂へと戻ります。


「今夜だけは、私を王妃と呼ばないで」


寝台に深く腰掛けたテオドラ様が、膝を抱えるようにして私を見上げました。その仕草は、帝国の象徴たる高貴な女性ではなく、ただの孤独な少女のようでした。


「……では、テオドラ、とお呼びしても?」


私が恐る恐るその名を呼ぶと、彼女は一瞬、驚いたように目を見開き、それから深海色の瞳を細めて、淡く微笑みました。



「ええ。心地いいわ。……誰もが私を、神に近い何かか、あるいは忌むべき化け物として呼ぶ中で、あなたの声だけは、私を『人間』として形作ってくれる」


私は彼女の隣に腰を下ろし、そっとその冷たい手を両手で包み込みました。かつての宮廷では許されなかった無作法も、滅びを待つだけの今夜は、何より尊い儀式のように感じられます。



「ねえ、セシリア。……あのアージェントの騎士、ユリウスと言ったかしら。あの方のところへ行かなくて、本当に良かったの?」


突然の問いかけに、私は息を呑みました。ユリウスとの密会のことは、決して話したことがなかったはずなのに。


「……驚かないで。私の身体は海に侵されていても、私の『鼻』は、まだ自由な風の匂い……ユリウス様の匂いくらいは嗅ぎ分けられるのよ」


「……あの方は、私を救おうとしてくださいました。この沈みゆく泥舟から、私だけを」


「そうでしょうね。彼は嵐のような人だもの。嵐はすべてを薙ぎ払い、新しい景色を見せてくれる」



テオドラ様は私の手をとり、自分の頬に押し当てました。その肌は、以前よりもずっと透き通り、不気味なほど冷たく澄んでいました。


「あなたは、その嵐にさらわれて、広い世界を見ることもできた。……それを断って、こんな暗い海の底へ私と沈む道を選ぶなんて。あなたは本当に、救いようのない馬鹿な子ね」


「……はい、承知しております」


私は震える声で、けれど真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返しました。



「嵐は、すべてをさらって去っていきます。けれど、私はどこかへ連れ去られたいわけではありません。私は、あの日……あなたが私の『呪い(魔眼)』を肯定してくださったあの瞬間から、あなたの地獄で、あなたの目となって生きることを選んだのです。ユリウス様は私の目を『悲しき目』と言いました。でも、この目があの日、あなたの孤独を見つけたからこそ、私の人生に意味が灯ったのです」


テオドラ様は私の手を強く、爪が食い込むほどに握り締めました。それは痛みではなく、彼女が私を離したくないという、初めての「我が儘」のように感じられました。


「……もし、私たちがただの娘として生まれていたら。こんな血の呪いも、国の重責もない、ただの村の娘だったら。……私たちは、どんな夢を見たのかしらね」


「そうですね……。朝早く起きてパンを焼き、摘んできた花を窓辺に飾る。そんな、何でもない一日を過ごしたのかもしれません。あなたが焼いたパンなら、きっと灰の味なんてしないでしょう」



「……ふふ、素敵ね。あなたが摘んできた花なら、私は毎日、心を込めて手入れをするわ。魔法なんてなくても、枯れないように」



テオドラ様は満足げに目を閉じ、私の肩に頭を預けました。 窓の外では、再び国王やマリウス様たちの、断末魔のような笑い声が風に乗って響きました。


けれど、今の私たちには、それはもう遠い、別の星の出来事のようにしか聞こえません。


「……愛しているわ、セシリア。あなたが私の侍女でいてくれたことを、海の神に感謝するくらいに」


その言葉は、潮騒に溶けて、消えていきました。


私は何も答えず、ただ彼女をさらに強く抱きしめました。 明日、レクイエム海峡で何が待っていようとも、私たちの魂は、この醜悪な祝祭から遠く離れた場所で、既に一つに溶け合っている。



窓の隙間から見えた本物の星空は、あの日宮殿で見上げた、偽物のどの宝石よりも、ずっとずっと、綺麗でした。



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