仮の宿
アウレリア王国の西の果て。激しい渦潮に守られた孤島、「シレーヌ島」。 断崖絶壁に囲まれたこの岩塊こそが、かつてバルバロッサ大公が海賊として旗揚げし、最初のアジトとした場所でした。 そして今、ヴァーミリオン一族の最後の砦となった場所でもあります。
「な、なんだこの汚らしい砦は! カビ臭いぞ!」
「窓ガラスもないではありませんか! 私の部屋はどこですの!?」
上陸した貴族たちは、半世紀放置されていた石造りの古砦を見て、口々に不平を漏らしました。 彼らはまだ理解していないのです。自分たちが「選ばれた貴族」から、ただの「難民」に転落したことを。
「お黙りなさい!」
一喝したのは、オクタヴィア大公妃でした。 杖を石畳に突き立て、彼女は老いた鷲のような鋭い眼光で、泣き言を言う貴族たちを睨みつけました。
「屋根があるだけマシだと思いなさい。 ……ここは、私たちが『はじめた』場所だよ。泥と血にまみれて、ここから世界を掴み取ったんだ。 文句がある者は海へ飛び込みなさい。渦潮が歓迎してくれるだろうよ」
その凄味に、クラウディウス国王もマリウス卿も、縮こまって黙り込むしかありませんでした。
その夜。 私たちは、砦の大広間――かつて海賊たちが略奪品の分配を行ったホール――を掃除し、船から運び出した絨毯や家具を並べて、即席の「仮王宮」をしつらえました。 粗末な石壁に最高級のタペストリーが掛けられた光景は、まるで落ちぶれた劇団の舞台セットのように、滑稽で物悲しいものでした。
一段落ついた深夜。 私は、砦の屋上にある見張り台へ向かいました。テオドラ王妃様の着替えを取りに行くためです。 すると、月明かりの下、オクタヴィア大公妃が一人で海を見下ろしていました。
「……大公妃様」
「セシリアか」
大公妃は振り返りもせず、手元の石壁を愛おしげに撫でていました。 そこには、古い剣傷のような跡が無数に刻まれています。
「懐かしいねえ。この傷は、あの方――バルバロッサが、若い頃に酔っ払ってつけたものさ」
彼女の声は、いつもの鉄のような冷たさが消え、少女のような柔らかさを帯びていました。
「あの頃の私たちは、何も持っていなかった。 金も、名誉も、明日食べるパンさえもなかった。 ……でもね、セシリア。今よりもずっと、血が熱かったよ」
大公妃は目を細めました。 彼女の脳裏には、黄金の玉座にふんぞり返る晩年の大公ではなく、潮風に髪をなびかせ、野心に目をぎらつかせていた若き日の夫の姿が浮かんでいるのでしょう。
「人間というのは皮肉なものだね。 幸せになるために必死で積み上げてきたものが、最後には自分を縛る鎖になるなんて」
彼女は、砦の下から聞こえてくる宴会の音(国王たちが騒いでいる声)を見下ろしました。
「あの子たちは、生まれた時から絹に包まれて育った。だから『失うこと』に耐えられない。 ……哀れな子たちだよ。私が甘やかして育てたせいで、ただの『飾り物』になってしまった」
それは、一族を支配してきた女帝の、最初で最後の懺悔でした。 彼女は知っているのです。この島が、再起のための拠点ではなく、一族の墓場になることを。 だからこそ、せめて最期の時まで、彼らに「貴族ごっこ」という夢を見させてやろうとしているのかもしれません。
「……セシリア。テオドラを頼んだよ」
不意に、大公妃が私に向き直りました。
「あの子はこの島に来てから、妙に落ち着いている。 まるで、ようやく『帰るべき場所』に近づいたとでも言うようにね。 ……母親の勘だが、あの子はもう、人間としての時間を終わらせようとしているのかもしれない」
私は胸が締め付けられ、無言で深く頭を下げました。 大公妃は寂しげに微笑むと、寒そうにショールをかき合わせ、冷たい石造りの階段を降りていきました。
砦の屋上に残された私は、眼下に広がる漆黒の渦潮を見つめました。 ゴウゴウと音を立てる激流は、外部からの侵入を拒む盾であり、同時に、私たちをこの島に閉じ込める檻でもあります。
(ユリウス……。あなたも今、この海の向こうで同じ月を見ているのでしょうか)
風が運んでくる潮の香りは、あの日の薔薇の香りよりも、ずっと鮮烈で、そして死の予感に満ちていました。 私たちは、この世界の果てのような島で、終わりの時を待つだけの日々を始めたのです。




