愚者の宴
トリスタン公爵の天才的な指揮によって、アージェント軍の追撃を退けた夜。 静寂を取り戻したはずの「紅蓮号」の大広間は、異様な熱気に包まれていました。
「勝利だ! 我らがヴァーミリオンの勝利だ! 乾杯!」
本来なら、節約すべき貴重なヴィンテージ・ワインが惜しげもなく開けられ、料理人たちがなけなしの食材で豪勢な料理を振る舞っていました。 新当主となったマリウス卿が主催する、「戦勝祝賀会」です。
「いやあ、陛下! 見ましたか、あの敵船の燃えっぷりを! やはり我が軍の威力は世界一。これも陛下の御威光のおかげですな!」
顔を赤くしたマリウス卿が、下卑た愛想笑いを浮かべてワインを注ぎます。 それを受けるクラウディウス国王もまた、満更でもない表情でグラスを掲げました。
「うむ、うむ! よく言った、マリウス! トリスタンも少しは役に立ったようだが、やはり軍を統べる余と、それを支えるそなたの采配があってこその勝利よな!」
「左様でございますとも! 父バルバロッサは偉大でしたが、少々強引すぎました。 これからは、知性溢れる陛下と、このマリウスの時代でございます!」
「ハハハ! 違いない!」
二人は互いのグラスをチンと鳴らし、肩を組んで笑い合いました。
見ていられませんでした。
実際に前線で血を吐きながら指揮を執ったトリスタン公爵は、今も自室で死人のように眠っているというのに。
安全な場所で震えていただけの「トップ二人」が、あたかも自分たちの手柄のように勝利を貪っているのです。 彼らは心の底で怯えているからこそ、互いを褒め称え合うことでしか、己の正気を保てないのでしょう。
「……見苦しい」
広間の隅で、オクタヴィア大公妃が扇子で口元を隠しながら、低い声で吐き捨てました。 その瞳は、実の息子と娘の夫(国王)に向けられたものとは思えないほど、冷徹な侮蔑に満ちていました。
「大公妃様……。止めなくてよろしいのですか?」
私が小声で尋ねると、オクタヴィア様は小さく首を振りました。
「放っておきなさい。 腐っても国王と当主だ。ここで私が彼らを叱りつければ、兵たちの指揮系統が乱れる。 ……馬鹿には馬鹿の役割(お飾り)をさせておくしかないのさ」
鉄の女帝もまた、組織という鎖に縛られていました。 彼女が耐え忍ぶことでしか、この寄せ集めの船団は維持できないのです。
そんな喧騒の中、テオドラ王妃様だけは、国王の隣に座らされながらも、魂が抜けたように一点を見つめていました。 目の前には豪華な料理が並んでいますが、手をつけていません。
「……セシリア」
不意に、王妃様が私を手招きしました。 私が耳を寄せると、彼女は震える声で囁きました。
「部屋が……暗いわね」
「え?」
「蝋燭が消えているのではないの? ……何も見えないわ。あなたの顔も、あの煩い夫の顔も」
私は息を呑みました。 広間には、何十本ものシャンデリアが煌々と輝いています。眩しいほどに。 それが見えないということは。
(ああ、ついに……)
「海神の呪い」の進行です。 海に近づけば近づくほど、彼女の五感は人間の機能を失い、海神の世界へと同調していく。 最初は「寒さ」を、次は「色彩」を、そして今は「光」そのものを失おうとしているのです。
「……テオドラ様。後ほど、目薬をお持ちしますね」
私は嘘をつくことしかできませんでした。 そんな私の動揺に気づかず、隣では国王がマリウス卿の肩を叩き、上機嫌で叫んでいました。
「おい、テオドラ! 笑わぬか! アージェントの野蛮人どもなど、我らの敵ではないのだぞ!」
国王は、妻の目がもう見えていないことになど、気づきもしません。 彼が見ているのは、自分に都合の良い幻影(勝利)だけ。
テオドラ様は、焦点の合わない瞳で、虚空に向かって微笑みました。
「……ええ、陛下。 とても……賑やかな、葬列ですこと」
その呟きは、音楽と笑い声にかき消され、誰の耳にも届きませんでした。 愚者たちの宴は夜明けまで続き、貴重な食料と、もっと貴重な「時間」を浪費していきました。 船底ではトリスタン公爵が次の死闘に備えているとも知らず、船はゆっくりと、けれど確実に破滅の海域へと進んでいたのです。




