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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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逆風のタクト

トリスタン公爵による初勝利の熱気が冷めやらぬ夜。「紅蓮号」の船底から、不気味なほど低い唸り声が響き続けていました。



私は、テオドラ王妃様の命を受け、負傷兵のための湯と布を求めて、普段は立ち入らない船の最下層へと降りました。 階段を下るにつれ、空気は湿気を帯び、油と焦げた匂いが鼻をつきます。



「ほら、もっと『マナ石』をくべろ! 回転数が落ちてるぞ!」


そこは、上の優雅な貴族エリアとは別世界でした。 巨大な鉄の塊――「魔導機関エンジン」が、獣のように鎮座しています。 上半身裸の機関員たちが、シャベルで青白く光る鉱石「マナ石」を釜へと放り込んでいました。 石が燃えるたびに、ピストンが激しく上下し、巨大なシャフトを回転させています。



「……これが、ヴァーミリオンの力の源」



私は圧倒されました。 世界中の船がまだ風任せの帆船であるこの時代に、我が国だけが、この「自ら動く力」を持っています。 風が止まれば止まるしかない他国と違い、私たちはこの鉄の心臓がある限り、どこへでも行ける。 けれど、その燃料となるマナ石もまた、海神から奪った力の欠片なのだと思うと、青白い光が不気味に見えました。



「おや、セシリア。こんな煤だらけの場所は、淑女には似合わないな」



背後から声がしました。 トリスタン公爵が、片手に海図を持ち、機関室の計器を眺めていました。


「トリスタン様……。次の戦闘の準備ですか?」


「ああ。夜明け前にもう一戦あるだろう。今度は、小細工が得意な『霧使い』の部隊だ」



彼は機関の轟音に負けないよう、少し声を張って言いました。


「セシリア。アージェントの奴らは哀れだと思わないか?  彼らは風の精霊に必死に祈り、帆を張り、自然の機嫌を伺いながら船を走らせる。それが世界の常識だ。  だが我々は、この鉄と石塊で、自然の理をねじ伏せている」


トリスタン様は、激しく回転する歯車を愛おしむように撫でました。



「風に逆らうことなど、本来は鳥にもできない。  だが、今夜はそれを見せてやろう。……文明の差というやつをな」



数時間後。 予言通り、夜明け前の濃霧に乗じて、アージェント軍の第二陣が奇襲を仕掛けてきました。 敵は霧に紛れ、風上から音もなく接近してきました。 帆船のセオリーでは、風上を取られた船は不利です。逃げるにしても、風に向かっては進めないからです。



「囲んだぞ! ヴァーミリオンの船は風下だ、身動きは取れん!」



霧の中から、敵兵の勝ち誇った声が聞こえます。 しかし、甲板に立ったトリスタン様は、指揮棒を振るように指を鳴らしました。



機関全開フル・ドライブ。面舵一杯」



ゴオオオオオッ!! 船底の魔導機関が咆哮を上げ、船体から黒い排煙が噴き出しました。 スクリューが海水を激しくかき回し、「紅蓮号」は常識外れの動きを見せました。 帆を畳んだまま、猛烈な勢いで「風に向かって」突進し始めたのです。



「な、なんだ!? 逆風だぞ!?」


「なぜ進める! 速すぎる!」



アージェントの船団はパニックに陥りました。 彼らの帆船では、風に逆らって進むには、ジグザグに航行するしかありません。 しかし、魔導エンジンを持つ私たちは、直進できるのです。



「さあ、踊ろうか」



トリスタン様は、敵艦隊のど真ん中を風上に向かって突破すると、急旋回して敵の背後(風上)を取りました。 立場が逆転しました。 今度は私たちが風上、敵が風下。 しかも、敵は風に向かって逃げることができません。


「終わりだ。……全砲門、開け」



ズドドドドンッ!! 左右の砲列から、魔導砲の閃光が走りました。 逃げ場を失った敵船は、薄い木造の船体を次々と粉砕され、霧の中に沈んでいきます。



「馬鹿な……こんなの、船じゃない……怪物だ……」


海に投げ出された敵兵の絶望的な呟きが聞こえました。 彼らの風魔法も、剣技も、私たちの圧倒的な「文明の暴力」の前には無力でした。



硝煙の匂いが漂う甲板で、トリスタン様はつまらなそうにあくびをしました。



「機関の振動でワインが不味くなった。  ……これなら、まだ小舟で釣りでもしているほうがマシだったな」



二度目の圧勝。 私たちは改めて思い知らされました。ヴァーミリオン家が、どれほど歪で、強大な力を独占していたのかを。 そして、その力を自在に操るトリスタン公爵という男が、どれほど恐ろしい「戦争の申し子」であるかを。



しかし、私は見ていました。 勝利に沸く船員たちの影で、トリスタン様がこっそりと吐血し、それをハンカチで拭っている姿を。 彼もまた、「業火の呪い」に蝕まれた短命の身。 この天才的な指揮も、燃え尽きる寸前の蝋燭の輝きに過ぎないのです。


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