死にたがりの軍略
帝都脱出から一夜が明け、東の空が白む頃。「紅蓮号」の艦橋はパニックに陥っていました。
「後方より敵影! アージェント軍の『剛風艦隊』です!」
「数は!?」
「およそ三十隻! こちらの倍です!」
見張り台からの絶叫に、新当主のマリウス卿は顔面蒼白で悲鳴を上げました。
「ひ、ひぃぃッ! 追いつかれた! もう駄目だ、白旗を上げろ! 降伏だ!」
「お待ちなさい、マリウス! ヴァーミリオンが降伏など……」
オクタヴィア大公妃が杖をついて叱咤しますが、恐怖に駆られた貴族たちは聞く耳を持ちません。船内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していました。 海を知り尽くしたバルバロッサ大公亡き今、この船団は頭を失った蛇のように迷走していたのです。
その時でした。 カツン、カツン、と優雅な足音が響き、艦橋の扉が開かれました。
「……朝から騒々しいな。二日酔いが悪化するだろう」
現れたのは、トリスタン公爵でした。 彼は寝起きのような気怠げな様子で、あくびを噛み殺しながら、震える兄マリウスの肩をポンと叩きました。
「退いていろ、兄上。 ……舵をよこせ」
その声は静かでしたが、有無を言わせぬ凄味がありました。 トリスタン様はそのまま舵輪の前に立つと、つまらなそうに海図を一瞥し、そしてニヤリと笑いました。
「敵将は誰だ?」
「は、はい! 旗印は『黒猪』……猛将と名高い、ガストン将軍かと思われます!」
「ガストンか。あの筋肉達磨なら、風魔法で帆を膨らませて、馬鹿正直に突っ込んでくるだけだろう」
トリスタン様は、まるでチェスの盤面を動かすように、次々と指示を飛ばし始めました。
「全艦、帆を畳め。エンジン停止」
「は!? それでは追いつかれます!」
「いいからやれ。……それと、右舷の砲門を開け。ただし、私が合図するまで撃つなよ」
船団が足を止めると、後方から迫るアージェント軍の船団がみるみる大きくなりました。 敵将ガストンの下卑た笑い声が、風に乗って聞こえてくるようです。 彼らは勝利を確信し、全速力で突っ込んできます。
「来た、来た。……獲物が網に入ったぞ」
敵艦隊が射程圏内に入った、その瞬間。 トリスタン様の瞳が、深紅に怪しく輝きました。
「――『凪の呪い』」
彼が指をパチンと鳴らすと、信じられないことが起きました。 あれほど吹き荒れていた海上の風が、ピタリと止んだのです。 さらに、海面が鏡のように静まり返り、敵船団の周囲だけ、水が泥のように粘り気を帯びました。
「な、なんだ!? 船が進まんぞ!」
「風が消えた!? 馬鹿な、我々の風魔法が効かない!」
勢いよく突っ込んでいた敵船は、急ブレーキがかかったように前のめりになり、後続の船が次々と追突しました。 海上で玉突き事故が起こり、大混乱に陥るアージェント艦隊。
「風使いが風を失えば、ただの木箱だ」
トリスタン様は、残酷なほど冷静に右手を振り下ろしました。
「撃て」
ドォォォォォン!!
待ち構えていたヴァーミリオン艦隊の一斉射撃が、身動きの取れない敵船団に降り注ぎました。 回避することもできず、敵船は次々と火だるまになり、砕け散っていきます。 それは戦闘ではありませんでした。一方的な「処刑」でした。
「す、すごい……」
私は言葉を失いました。 父バルバロッサのような「力によるねじ伏せ」ではありません。 トリスタン様の戦い方は、敵の力を利用し、自滅を誘う、天才的かつ芸術的な指揮でした。
燃え上がる敵艦隊を眺めながら、トリスタン様は退屈そうに呟きました。
「……脆いな。 やはり、あの『銀色の狼』がいない群れなど、この程度か」
彼は、敵がアージェント軍の主力ではなく、ユリウスが率いる部隊ではないことを瞬時に見抜いていました。
「セシリア、酒を持ってこい。祝杯だ」
「は、はい!」
トリスタン様は、炎上する海を背景に、渡されたワインを一息に飲み干しました。 その横顔には、勝利の喜びなど微塵もありません。 あるのは、自分と同等に殺し合える相手がいないことへの、深い絶望と退屈だけでした。
「次だ。……次は夜に来るぞ。 せいぜい楽しませてくれよ、アージェントの雑魚ども」
この日、私たちは知りました。 太陽が沈んだ後、闇の海を支配するのは、この虚無を抱えた「死にたがりの天才」であることを。 トリスタン公爵の指揮のもと、ヴァーミリオン艦隊は息を吹き返し、ここから二度、三度と奇跡的な勝利を重ねていくことになるのです。




