表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/28

飢えた狼の記憶

逃亡を続ける「紅蓮号」の甲板は、死んだように静まり返っていました。



夜風は冷たく、頬を叩くたびに、遠く離れたアージェントの山々から吹き下ろす雪の匂いがするようでした。



眠れぬまま甲板に出た私は、船尾の手すりに腰掛け、暗い海を見つめる影を見つけました。


トリスタン公爵でした。 彼はいつものようにワイングラスを……いいえ、今夜は何も持たず、ただ空っぽの両手を夜風に晒していました。



「……おや、セシリアか。君も眠れないのかい」



振り返った彼の美貌は、月明かりの下で陶磁器のように蒼白でした。 私は一礼して近づきました。


「はい。……あの『白銀の風』の音が、耳から離れなくて」


私が正直に答えると、トリスタン様は口元を皮肉っぽく歪めました。



「無理もない。あれはただの魔法じゃない。  あれは、二十年分の『飢え』と『屈辱』が凝縮された、怨念の嵐だからな」


「怨念、ですか……?」



トリスタン様は、北の方角――アージェント王国がある方向を顎でしゃくりました。



「セシリア。君は、アージェントがどんな国か知っているか?」


「いえ……。鉄と雪の国、としか」



「そう、鉄と雪しかない。作物は育たず、民は常に腹を空かせている極寒の地だ。  対して我々ヴァーミリオンは、海神から盗んだ力で海を支配し、富を独占した。  ……父上バルバロッサは、さらに残酷なことをした。魔法で海流を操作し、アージェント側の港を干上がらせ、彼らを『兵糧攻め』にしたんだよ」



私は息を呑みました。 アージェントの民が飢えているのは、自然の厳しさのせいだけではなかった。 ヴァーミリオンが、意図的に彼らの糧を奪っていたのです。



「二十年前だ。大飢饉に耐えかねた先代のアージェント王――ユリウスの父親が、この都へ頭を下げに来たことがある」



トリスタン様の声が、一段と低くなりました。


「『民にパンを恵んでくれ』と、誇り高き王が涙を流して乞うた。  それに対して、絶頂期にあった父上は何と言ったと思う?」


嫌な予感が背筋を走りました。


「……『私の靴を舐めろ』と言ったんだ。『犬のように吠えてみせれば、残飯を恵んでやる』とな」


「なんと……むごいことを」



「父上にとって王族や貴族というものは、どこまでも憎悪の対象でしかなかった。例え国は違ってもな。先代の王は、愛する民のためにそれに従ったよ。大広間の床に這いつくばり、父上の靴を舐め、犬の真似をした。  ……その光景を、当時まだ少年だったユリウス王子が、柱の陰からじっと見ていたのさ」



私は口元を手で覆いました。 脳裏に浮かぶ、あの銀色の仮面の騎士。 彼が纏っていた凍てつくような孤独と殺気。その根源にあるのが、父を犬扱いされた少年時代のトラウマだったとは。 彼にとって、私たちは倒すべき敵である以前に、父の尊厳を踏みにじった「悪魔」そのものだったのです。



「食料を得て国へ帰った王は、屈辱のあまり自害したそうだ。  それ以来、アージェントは変わった。  彼らは生きるために『感情』を捨てたんだ」


「感情を……?」


「ああ。奴らが使う『風の精霊魔法』の話だ。  我々が『命』を削って水の魔力を得るのに対し、彼らは精霊との契約の代償として『色』を差し出している」



トリスタン様は、自分の胸に手を当てました。



「水を切り裂けるのは風だけだ。  彼らはヴァーミリオンを殺すためだけに、過酷な山岳で修行し、愛も、恐怖も、温もりも、すべてを風の精霊に喰わせて『力』に変えた。  だから奴らは強い。……痛みを感じない殺人機械だからな」



そう語るトリスタン様の瞳には、敵への恐怖ではなく、どこか共感に近い色が揺らめいていました。 彼もまた、帝国の腐敗に絶望し、心を虚無に閉ざしてしまった人だからでしょう。 感情を捨てた白銀の騎士たちと、希望を捨てた深紅の公爵。 二つの絶望が、この海の上で交錯しているのです。



「皮肉な話だろう?  父上は『虐げられた者』のために国を作ったはずが、いつの間にか他国を『虐げる者』になっていた。  ユリウスが我々を根絶やしにしようとするのは、復讐であると同時に、彼らにとっての『生存競争』なんだよ。我々を殺さなければ、彼らが飢え死にするのだから」


「そんな……。では、私たちは……」



「そうだ、セシリア。我々は『悪』だ。  どれだけテオドラが美しかろうと、君が潔白だろうと、我々は彼らの父を殺し、パンを奪って肥え太った豚なのだよ」



トリスタン様は静かに微笑みました。 それは、自らの死刑判決を受け入れる聖人のような、穏やかで残酷な微笑みでした。



「だからこそ、美しく終わらせなければならない。  醜く逃げ回るのはやめだ。……次、彼らが追いついてきた時が、幕引きの時だろう」



夜風が強くなり、帆がバタバタと音を立てました。 その音は、まるで腹を空かせた狼たちの遠吠えのように聞こえました。


私は胸元に隠していた、ユリウスから貰った一輪の白い百合を、服の上から強く握りしめました。 この花は、彼が感情を捨て去ったはずの心で、奇跡的に咲かせた「愛」の欠片。 彼は、一族の悲願である復讐と、私への想いの間で、どれほど引き裂かれていることでしょう。



(ユリウス……。あなたは、泣きながら剣を振るっているのですね)



暗い海原の向こうに、私は彼の銀色の瞳を見たような気がしました。 私たちの恋は、最初から血と罪の上に咲いた、決して実らぬ徒花だったのです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ