飢えた狼の記憶
逃亡を続ける「紅蓮号」の甲板は、死んだように静まり返っていました。
夜風は冷たく、頬を叩くたびに、遠く離れたアージェントの山々から吹き下ろす雪の匂いがするようでした。
眠れぬまま甲板に出た私は、船尾の手すりに腰掛け、暗い海を見つめる影を見つけました。
トリスタン公爵でした。 彼はいつものようにワイングラスを……いいえ、今夜は何も持たず、ただ空っぽの両手を夜風に晒していました。
「……おや、セシリアか。君も眠れないのかい」
振り返った彼の美貌は、月明かりの下で陶磁器のように蒼白でした。 私は一礼して近づきました。
「はい。……あの『白銀の風』の音が、耳から離れなくて」
私が正直に答えると、トリスタン様は口元を皮肉っぽく歪めました。
「無理もない。あれはただの魔法じゃない。 あれは、二十年分の『飢え』と『屈辱』が凝縮された、怨念の嵐だからな」
「怨念、ですか……?」
トリスタン様は、北の方角――アージェント王国がある方向を顎でしゃくりました。
「セシリア。君は、アージェントがどんな国か知っているか?」
「いえ……。鉄と雪の国、としか」
「そう、鉄と雪しかない。作物は育たず、民は常に腹を空かせている極寒の地だ。 対して我々ヴァーミリオンは、海神から盗んだ力で海を支配し、富を独占した。 ……父上バルバロッサは、さらに残酷なことをした。魔法で海流を操作し、アージェント側の港を干上がらせ、彼らを『兵糧攻め』にしたんだよ」
私は息を呑みました。 アージェントの民が飢えているのは、自然の厳しさのせいだけではなかった。 ヴァーミリオンが、意図的に彼らの糧を奪っていたのです。
「二十年前だ。大飢饉に耐えかねた先代のアージェント王――ユリウスの父親が、この都へ頭を下げに来たことがある」
トリスタン様の声が、一段と低くなりました。
「『民にパンを恵んでくれ』と、誇り高き王が涙を流して乞うた。 それに対して、絶頂期にあった父上は何と言ったと思う?」
嫌な予感が背筋を走りました。
「……『私の靴を舐めろ』と言ったんだ。『犬のように吠えてみせれば、残飯を恵んでやる』とな」
「なんと……むごいことを」
「父上にとって王族や貴族というものは、どこまでも憎悪の対象でしかなかった。例え国は違ってもな。先代の王は、愛する民のためにそれに従ったよ。大広間の床に這いつくばり、父上の靴を舐め、犬の真似をした。 ……その光景を、当時まだ少年だったユリウス王子が、柱の陰からじっと見ていたのさ」
私は口元を手で覆いました。 脳裏に浮かぶ、あの銀色の仮面の騎士。 彼が纏っていた凍てつくような孤独と殺気。その根源にあるのが、父を犬扱いされた少年時代のトラウマだったとは。 彼にとって、私たちは倒すべき敵である以前に、父の尊厳を踏みにじった「悪魔」そのものだったのです。
「食料を得て国へ帰った王は、屈辱のあまり自害したそうだ。 それ以来、アージェントは変わった。 彼らは生きるために『感情』を捨てたんだ」
「感情を……?」
「ああ。奴らが使う『風の精霊魔法』の話だ。 我々が『命』を削って水の魔力を得るのに対し、彼らは精霊との契約の代償として『色』を差し出している」
トリスタン様は、自分の胸に手を当てました。
「水を切り裂けるのは風だけだ。 彼らはヴァーミリオンを殺すためだけに、過酷な山岳で修行し、愛も、恐怖も、温もりも、すべてを風の精霊に喰わせて『力』に変えた。 だから奴らは強い。……痛みを感じない殺人機械だからな」
そう語るトリスタン様の瞳には、敵への恐怖ではなく、どこか共感に近い色が揺らめいていました。 彼もまた、帝国の腐敗に絶望し、心を虚無に閉ざしてしまった人だからでしょう。 感情を捨てた白銀の騎士たちと、希望を捨てた深紅の公爵。 二つの絶望が、この海の上で交錯しているのです。
「皮肉な話だろう? 父上は『虐げられた者』のために国を作ったはずが、いつの間にか他国を『虐げる者』になっていた。 ユリウスが我々を根絶やしにしようとするのは、復讐であると同時に、彼らにとっての『生存競争』なんだよ。我々を殺さなければ、彼らが飢え死にするのだから」
「そんな……。では、私たちは……」
「そうだ、セシリア。我々は『悪』だ。 どれだけテオドラが美しかろうと、君が潔白だろうと、我々は彼らの父を殺し、パンを奪って肥え太った豚なのだよ」
トリスタン様は静かに微笑みました。 それは、自らの死刑判決を受け入れる聖人のような、穏やかで残酷な微笑みでした。
「だからこそ、美しく終わらせなければならない。 醜く逃げ回るのはやめだ。……次、彼らが追いついてきた時が、幕引きの時だろう」
夜風が強くなり、帆がバタバタと音を立てました。 その音は、まるで腹を空かせた狼たちの遠吠えのように聞こえました。
私は胸元に隠していた、ユリウスから貰った一輪の白い百合を、服の上から強く握りしめました。 この花は、彼が感情を捨て去ったはずの心で、奇跡的に咲かせた「愛」の欠片。 彼は、一族の悲願である復讐と、私への想いの間で、どれほど引き裂かれていることでしょう。
(ユリウス……。あなたは、泣きながら剣を振るっているのですね)
暗い海原の向こうに、私は彼の銀色の瞳を見たような気がしました。 私たちの恋は、最初から血と罪の上に咲いた、決して実らぬ徒花だったのです。




