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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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海賊と真珠の罪

夜の帳が降りた船内は、墓場のように静まり返っていました。


船底から響く、海神の心臓のような低いエンジン音と、波が船腹を叩く音だけが、永遠に続いています。



私は、ルシアン王子が眠る部屋の隅で、崩れた化粧を直すこともせず、ただグラスを傾けているオクタヴィア大公妃の前に控えていました。


鉄の女帝と呼ばれた彼女も、夫を喪い、都を追われた今夜ばかりは、年相応の疲れを滲ませていました。



「……セシリア。お前は知っているか」



大公妃は、赤ワインを血のように唇に含み、低い声で問いかけました。 その視線は、虚空の向こうにある「過去」を見ていました。



「私たちがまだ、きらびやかなドレスも、『大公』なんて称号も持っていなかった頃の話を」


「いえ……。存じ上げません」



大公妃はふっ、と自嘲気味に笑いました。



「そうだろうね。歴史書には『ヴァーミリオン家は古き名門』なんて嘘を書かせたからね。  ……私たちはね、海賊だったんだよ」


「海賊、ですか」


「ああ。このアウレリア王国の最果て、岩と嵐しかない貧しい島で、泥を啜って生きる漁師と海賊の集まりさ」



大公妃の語り口は、いつもの高圧的なものではなく、昔話をする老婆のそれでした。



「あの頃、辺境の村々では、毎年嵐が来るたびに人が死んだ。飢饉が来れば子供を間引き、疫病が流行れば村ごと焼き払った。それでも、都の黄金の王様や貴族たちは、誰一人助けには来なかった。彼らは高い城壁の中で、私たちの税で買った美酒に溺れ、辺境の人間が死ぬのを『自然の摂理だ』と笑っていたのさ」



大公妃の手が、グラスを砕きそうなほど強く握りしめられました。 そこには、半世紀経っても色褪せない、中央への強烈な憎悪がありました。



「あの方――バルバロッサは、それが許せなかった。  泣き叫ぶ親たちを見て、あの方は天に唾を吐いて誓ったんだ。 『飢えも天災もない、夢の国を作ってやる。たとえ神を殺してでも』とね」



そして、あの運命の夜が訪れました。


若き日のバルバロッサは、村一番の船乗りたちを引き連れ、人間が決して立ち入ってはならぬ聖域、深海の遺跡「竜の顎」へと潜りました。


それは、祈ることを止めた人間による、神への強盗劇でした。



「あの方は、海神がまどろんでいる隙に、その力の源である『潮満つる宝珠』を盗み出した。  ……代償として、仲間の半数が波に飲まれたけれど、あの方は宝珠を握りしめて戻ってきたよ。全身から血を流して、それでも勝ち誇った顔でね」



盗まれた神の力は、奇跡を起こしました。


辺境の島々から嵐は消え、海は豊かな魚を湧き出させ、ヴァーミリオンの船団は風を操って莫大な富を築きました。


彼らはその金と武力で腐敗した王家を恫喝し、中央へ乗り込み、ついには「大公家」として実権を握ったのです。



「私たちは夢を叶えた。……民は腹一杯パンを食べられるようになり、子供たちは凍えることもなくなった。 けれど、ただで済むはずがないだろう?  相手は神だ。盗んだ利息は、高くついたよ」



大公妃は、眠っているルシアン王子の横で、空っぽになった揺り籠を見つめました。 そこにはかつて、テオドラ様が眠っていたはずの場所です。



「宝珠の力が強すぎて、男たちは『業火の熱』に焼かれて短命になった。  あの方は悟ったのさ。このままでは一族が根絶やしになる、と。  だから……あの方は、神に『借金』を返すための『貨幣』を作ることにしたんだ」



それが、テオドラ王妃様でした。


大公妃は、神殿の祭壇で、盗んだ宝珠を腹に抱き、夫の種と共に、神の冷たい魔力を直接子宮へと注ぎ込んだのです。 それは、愛の結晶ではなく、呪いの鋳造でした。



産声うぶごえを上げない子だったよ。  抱き上げると、まるで氷の塊のように冷たかった。 ……その時、分かったんだ。この子は人間じゃない。私たちが盗んだ『火』を鎮めるための『水』であり、いずれ神へお返しするための『生贄』なんだとね」



大公妃の声が、微かに震えました。


彼女は冷酷な女帝ですが、それでも、腹を痛めて産んだ我が子を「貨幣」と呼ばねばならなかった苦しみは、計り知れません。


彼女もまた、夫の掲げた「夢の国」を守るために、母としての心を殺した共犯者だったのです。



「セシリア。あの子――テオドラを憐れんでおやり。 あの子はね、私たちが贅沢をするために支払った、生きた領収書なんだよ」



重すぎる真実でした。


アウレリアの繁栄も、美しい薔薇の宮殿も、すべてはテオドラ様という一人の少女の犠牲の上に成り立っていた砂上の楼閣。


バルバロッサ大公は、民を救う英雄でありながら、娘を喰らう鬼でもあったのです。



「……もう遅い時間だね。下がりなさい」



大公妃は、再び鉄の仮面を被り、私に背を向けました。 その背中は、かつてよりも一回り小さく、そしてどうしようもなく孤独に見えました。



私は一礼して部屋を出ました。 廊下の窓から見える海は、どこまでも深く、暗い口を開けていました。


この海の底に、神が待っている。


盗まれた心臓と、約束された花嫁が還ってくるのを、息を潜めて待っているのです。


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