泥の夫、深淵の恋人
船内は、生き延びた喜びよりも、得体の知れない腐敗した静寂に包まれていました。
甲板に溢れる将兵たちは、泥と血にまみれた軍服のまま、力なく座り込んでいます。
かつて無敵を誇った近衛騎士たちの瞳からは光が消え、ただ波の音に怯えるだけの抜け殻のようになっていました。
一方で、豪華な船室に逃げ込んだ貴族たちは、ここが戦場であることも忘れ、僅かに持ち出した宝石の所有権を巡って見苦しい争いを続けています。
「この席は公爵家のものであるはずだ!」
「私のドレスに触るな、下賤な兵卒め!」
彼らの叫び声は、船底から響く魔導エンジンの不気味な重低音にかき消されていきました。崩壊したのは都だけでなく、築き上げられた「ヴァーミリオン」という秩序そのものでした。
逃げるように港を出た旗艦「紅蓮号」は、漆黒の海を西へと進んでいました。
揺れる船内は、狭い蚕棚のようで、かつての宮廷の優雅さは見る影もありません。
けれど、テオドラ王妃様に与えられた船尾の特別室だけは、皮肉にもまだ「王妃の寝室」としての体裁を保っていました。
足下からは鼓動のような揺れを感じます。
紅蓮号の心臓部には、バルバロッサ大公が深海から奪い取った「海神の心臓」の欠片が埋め込まれています。
船が沖へ出るにつれ、その魔石が放つ青白い燐光が、船体全体を脈打つように照らし始めました。
それはまるで、捕らえられた巨獣が苦悶の声を上げているかのようでした。
「……聞こえるわ。彼らが怒っている。私を、呼んでいるの」
ルシアン王子を抱くテオドラ様の横顔に、私は息を呑みました。
彼女の首筋に、先ほどまではなかった薄い銀色の鱗が、月光を反射して一筋の線を描いていたのです。
帝都の魔法障壁が失われたことで、彼女を繋ぎ止めていた「人間の理」が急速に剥がれ落ちている。
彼女を救ったはずのこの船が、皮肉にも彼女を「海」へと引き寄せる巨大な装置へと変質していました。
私は、胸元に隠した一輪の白い百合――ユリウスが去り際に残したあの花に、そっと手を触れました。
私の魔眼は、今でも岸壁に立ち尽くしていた彼の「青い熱」を焼き付けて離しません。彼は私を見逃した。敵である私を。
それは慈悲だったのか、それとももっと残酷な「絶望の共有」だったのか。彼が私を殺さなかったことで、私は今こうして生きている。
けれど、その命の火は、テオドラ様への裏切りと、崩壊した故郷への贖罪という泥沼の中で、じわじわと酸欠を起こし始めていました。
「セシリア……。あなたは、私を離さないと約束したわね」
不意に、テオドラ様が私の指を強く握りしめました。その手は、驚くほど冷たく、けれど縋るような激しさを帯びていました。
「たとえ、この船が海の底へ辿り着いたとしても。……あなたは、私の『目』でいてくれる?」
私は、言葉の代わりに、彼女の冷たい指先に唇を寄せました。
海風は激しさを増し、紅蓮号は漆黒の深淵へと、真っ逆さまに突き進んでいきます。
これが、私たちの選んだ自由。死よりも重い、愛という名の逃避行の始まりでした。
深夜。 私がテオドラ様の濡れた髪を拭いていると、乱暴に扉が開かれました。
「……テオドラ! 貴様、起きているのか!」
酒の臭気を漂わせて入ってきたのは、クラウディウス国王でした。
アウレリア王国の正統なる王でありながら、長年バルバロッサ大公の傀儡として飼い殺しにされてきた夫。
彼は、義父である大公が死んだ今こそ、自分が主導権を握る時だと勘違いしているようでした。
「陛下。……ノックもなしに、いかがなさいましたか」
テオドラ様は鏡越しに夫を見据え、氷のように静かな声で問いかけました。 その冷淡さが、国王の癇に障ったのでしょう。彼は千鳥足で歩み寄り、王妃様の細い肩を掴みました。
「その目だ……! 貴様らヴァーミリオンは、いつも余を見下しおって! 大公は死んだ! 貴様の化け物じみた魔力も、もう終わりだ。 これからは余が……この余が、王として……!」
国王はわめき散らしながら、テオドラ様の身体を引き寄せようとしました。 しかし、次の瞬間。
「ひっ!?」
国王は悲鳴を上げ、弾かれたようにテオドラ様を突き飛ばしました。 王妃様は無言で、床に手をつきました。
「つ、冷たい……! なんだその肌は! 死体のように冷たいではないか!」
国王は自らの手をさすりながら、怯えた目で妻を見下ろしました。
そうです。この方は、結婚してから十年間、ただの一度もテオドラ様を「妻」として愛したことはありませんでした。
初夜の床で、彼女の体温のない肌に触れて以来、彼はテオドラ様を「呪われた女」「美しい怪物」として恐れ、指一本触れようとはしなかったのです。
テオドラ様は、表情一つ変えずに立ち上がりました。 その瞳の奥には、軽蔑すら通り越した、深い諦めの色がありました。
「……ええ、陛下。私は冷たいのです。 あなたの温かい手では、私の心まで溶かすことはできませんでした」
「う、うるさい! 近寄るな! お前など、海へ落ちてしまえばいいんだ!」
国王は捨て台詞を吐き、逃げるように部屋を出て行きました。
バタン、と扉が閉まる音だけが、虚しく響きます。
残されたテオドラ様は、ふう、と小さく息を吐き、崩れるように長椅子へ座り込みました。
「……セシリア」
「はい」
「香を。……今夜は、たくさん焚いて」
その声の、なんと弱々しく、寂しいことでしょう。
私は無言で香炉を用意し、「夢違」の香をくべました。
紫色の煙が立ち上り、船室の黴臭い空気を、甘い潮騒の香りで塗り替えていきます。
煙の向こうで、テオドラ様がぽつりと語り始めました。
「あの方だけなの」
「……はい」
「私がまだ幼い頃、父に連れられて初めて海へ出た日。……私は、波の底から呼ぶ声を聞いたわ。 『お前は冷たくなどない』と。 『それは、私が陸の熱からお前を守るために与えた、加護なのだ』と」
テオドラ様は、香炉の煙を愛おしむように指でなぞりました。
その表情は、先ほど国王に向けた能面のような顔とは別人のように、恋する乙女のあどけなさを帯びていました。
「夢の中の『龍宮』ではね、私は息ができるの。 重たいドレスも、コルセットもいらない。 あの方――海神様の鱗は、とても硬くて冷たいけれど、私にとっては陽だまりのように温かいのよ」
彼女にとっての現実は、この船上の惨めな逃避行ではなく、まぶたの裏にある深淵の世界だけ。
地上の夫である国王は、彼女を「怪物」と呼びました。
けれど、異形の神である海神だけが、彼女を「人間」として愛してくれたのです。
「セシリア。……私はね、アウレリアの王妃になんて、なりたくなかった」
テオドラ様は、そっと目を閉じました。
その目尻から、一筋の雫がこぼれ落ちました。
「私はただ、誰かに……私のこの冷たい手を、恐れずに握ってほしかっただけなのに」
私は、その涙をハンカチで拭うことさえできませんでした。
ただ、彼女が深い眠りに落ち、夢の恋人の腕の中に辿り着くまで、祈るようにそばに控えていることしか。
窓の外では、黒い波が船体を叩き続けていました。 それは、早く花嫁を返せと急かす、海神の嫉妬深い鼓動のようにも聞こえました。




