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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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白銀の侵略

帝都アウレリアの港は、この世の終わりのような阿鼻叫喚に包まれていました。



「乗せろ! 金ならいくらでも払う!」


「どけ! 公爵家が先だぞ!」



我先にと逃げようとする貴族たちが、タラップに殺到し、互いを突き落とし合っています。 かつて優雅にワルツを踊っていた足で、今は他人の頭を踏みつけているのです。


海面には、すでに定員オーバーで転覆した小舟や、誰かの旅行鞄、そして豪華なドレスを纏ったままの水死体が、無惨に浮いていました。


海面に漂うのは、脱ぎ捨てられた宝石や絹の端切れ。


それらは血に染まった海水に弄ばれ、まるで死にゆく巨獣が剥ぎ落とした鱗のように虚しくぎらついていました。


先ほどまで贅沢を競っていた貴族たちが、今はただ一本の腐ったロープを巡って、互いの眼球を突き刺さんばかりの形相で争っている。


逃げ惑う足元で踏み拉かれたのは、かつて民衆を支配した権威ではなく、ただの生への執着という名の醜い肉の塊でした。


その阿鼻叫喚の渦を、燃え盛る帝都の煙が黒いヴェールとなって静かに覆い隠していきます。



「……見苦しい」



オクタヴィア大公妃が、氷のような声で吐き捨てました。 彼女の一声で、近衛兵たちが抜刀し、暴徒と化した貴族たちを容赦なく切り伏せ始めました。


鮮血が飛び散り、悲鳴が上がります。 その血の道を、バルバロッサ大公の遺体を乗せた担架が、静粛に進んでいきました。 死してなお、大公は恐怖で人を支配しているのです。



私たちは、旗艦である巨大な船「紅蓮クリムゾン号」へと乗り込みました。 甲板に立ったテオドラ王妃様は、振り返り、燃え盛る帝都を見つめました。 その瞳に映っていたのは、愛着でしょうか、それとも憎しみでしょうか。



「……来るわ」



王妃様が呟いた直後でした。 夜空を引き裂くような、甲高い音が響き渡りました。


ヒュオオオオオッ――!!


それは風の音でした。 けれど、自然の風ではありません。 鉄の匂いと、殺気を孕んだ、人工的な「刃の風」です。


大気が悲鳴を上げて割れ、不可視の刃が港の石畳を深々と削り取っていきます。


巻き上がった土埃さえもが銀色の殺意に染まり、立ち向かおうとする歩兵たちの槍を、飴細工のように容易くへし折りました。


それは騎士の技というより、意思を持った天災そのもの。


アージェントが長年磨き上げてきた「風の魔導」は、ヴァーミリオンの重厚な鎧を紙屑のように切り裂き、逃げ場のない港を、瞬時にして音のない屠殺場へと作り変えてしまったのです。


「な、なんだ!?」


港の入り口を守っていたヴァーミリオン軍の防衛隊が、一瞬にして宙に舞い上がりました。 見えない巨大な鎌で薙ぎ払われたかのように、鎧ごと兵士たちが切断され、血の霧となって吹き飛びます。



「敵襲ーーッ! アージェントの『疾風騎士団』だ!!」



誰かの絶叫とともに、炎の向こうから、「白銀」の騎馬隊が姿を現しました。 白い狼の毛皮を纏い、銀色の鎖帷子を輝かせた騎士たち。


彼らは燃える瓦礫をものともせず、疾風のごとき速さで港へと雪崩れ込んできました。



その先頭を駆ける、一際凄まじい風を纏った騎士。 銀の狼の仮面をつけた、黒いマントの男。


「……ユリウス」


私は甲板の手すりを握りしめ、思わずその名を呼びました。 けれど、私の知る「孤独な彼」は、そこにはいませんでした。 そこにいたのは、感情を持たない殺戮の嵐。 彼は愛剣である魔剣「薄氷」を一振りしただけで、立ち塞がる兵士たちを数十人単位で吹き飛ばし、港を制圧していきます。



(ああ……、これが戦争)



私の「目」には見えました。 彼が剣を振るうたびに、美しい銀色の軌跡が描かれ、それが人の命を刈り取っていく様が。 残酷なほどに美しく、そして圧倒的でした。



ヴァーミリオン家の魔道師たちが、必死で水の魔法を放ちますが、ユリウスの風はそれさえも切り裂き、無効化してしまいます。 もはや勝負になりません。時代が、入れ替わろうとしているのです。



「出航せよ!! 急げ!!」



新当主となったマリウス卿が、裏返った声で叫びました。 まだタラップには多くの味方が残されていましたが、船員たちは無情にもロープを切り放ちました。 取り残された人々が「待ってくれ!」と叫びながら海へ落ちていきます。


「逃がすかよ……!」


岸壁に到達したユリウスが、逃げ始めた私たちの船を見上げました。 その距離、およそ百メートル。 剣が届く距離ではありません。 しかし、彼は仮面の奥で目を細めると、低く身を沈め、剣を構えました。



バリバリバリッ!



彼周囲の大気が凍りつき、真空の刃が形成されていきます。 遠距離からの斬撃。 この船を、私たちごと両断するつもりだ。


「いけない……!」


私はとっさに、テオドラ様とルシアン王子を庇うように前に出ました。 その時、ユリウスの視線が、船上の私と交錯しました。 灰色の世界の中で、彼だけが鮮烈な青色に輝いて見えます。



彼の手が、ピクリと止まりました。 風の勢いが、ほんの僅かに緩んだのです。


(……セシリア?)



風に乗って、彼の戸惑う声が聞こえたような気がしました。 敵である私を見つけたことで、刃に迷いが生じたのです。 その一瞬の隙が、私たちの命を繋ぎました。


「抜錨! 全速前進!」


「紅蓮号」の船底に仕込まれていた海神の魔石が起動し、船は急加速しました。 ユリウスが放った風の刃は、船尾をわずかに掠め、海面を大きく切り裂いただけに終わりました。 水柱が上がり、私たちは爆風に煽られながらも、沖へと逃れることに成功しました。





遠ざかる岸壁。 炎と黒煙の向こうに、剣を下ろして立ち尽くすユリウスの姿が小さく見えました。 彼はもう追ってきませんでした。 ただ、じっとこちらを見つめているその立ち姿からは、殺気ではなく、どうしようもない悲哀が漂っていました。



「……助かったのか」



誰かが安堵の息を漏らしました。 けれど、私は震えが止まりませんでした。 恐怖からではありません。 彼が私を殺せなかったように、私もまた、彼が私たちを殺し損ねたことに安堵してしまっている。 その事実が、テオドラ様への裏切りのように思えて、胸が張り裂けそうだったのです。


潮風は私の頬を刺すように冷たく、けれど心臓の奥だけは、拭い去れない自責の念で激しく焼けついていました。


テオドラ様の隣に立ちながら、私の魂の半分は、あの岸壁に立ち尽くす銀色の孤独に引きずられている。


ユリウスと見つめ合ったあの一瞬、私の魔眼は彼の「迷い」を捉え、それを歓喜してしまった。


その醜い喜びが、主への忠誠をじわじわと汚染していく。



私は初めて、自分の魔眼が捉える真実が、呪いではなく、逃れられない自分自身の『罪』そのものであることを悟ったのです。


「セシリア」



不意に、テオドラ様が私の肩に触れました。 責めるような目ではありませんでした。 深海色の瞳は、ただ静かに、私の乱れた心を見透かしていました。



「……あの風の騎士。あなたの知っている人ね?」



私は嘘をつけず、ただ無言で頭を垂れました。 王妃様はふっと寂しげに微笑み、遠ざかるアウレリアの街へ視線を戻しました。



「皮肉なものね。  私たちを生かしたのは、父の遺した魔力ではなく、敵将の『迷い』だったなんて」



船は闇夜の海へと進んでいきます。 背後では、私たちの故郷が、美しい骸となって燃え落ちていました。




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