第17話『ただの住民、決意する(たぶん)』
その日の夜、蕨は部屋のベッドに倒れ込み、天井を見つめていた。
――曲作りどころじゃない。
ピアノのフレーズも、ビートのアイデアも、今日は一つも浮かんでこなかった。
代わりにずっと、あの瞬間がリピートしていた。
『文化祭で……弾いてほしい』
音楽室で、あの宿屋の娘が
小さく震えながら、それでも真っ直ぐに、そう言った。
普段はボソボソ話すのに、あの時だけは目を逸らさなかった。
蕨は布団の上で転がりながら、脳内で“もしも劇場”を始めてしまう。
――勇者パーティの誰もいない城下町。
その真ん中で、宿屋の娘が泣きそうな声で言う。
『蕨さん……助けて……』
「お、おれ!? いや無理無理無理無理……!」
蕨(ただの住民)が上下左右にバタバタ動き、
どうすればいいか分からず、最後にはその場にパタッと倒れる。
(ちがうって……なんで俺の脳内劇は毎回こんな情けねぇんだ……)
頭を抱えながら、うつ伏せになり、枕に顔をうずめる。
でも――。
(泣かれるの……嫌なんだよな)
あれはズルい。
宿屋の娘が涙ぐんだ瞬間、胸がギュッと締まった。
あれを断ったら、きっと今の“楽しい時間”にもヒビが入る気がした。
逗子たちと笑って帰る放課後も、
こっそりピアノを弾いて、宿屋の娘が見張ってくれる時間も。
(……終わるの、やだな)
そう考えた時、もう一つの感情が胸を刺した。
(それに……ステージって……どんな気分なんだろ)
人前は無理。絶対無理。
けれど――ほんの少しだけ。
誰かに褒められたい気持ちが、確かにあった。
「……はぁ!? 何考えてんだ俺!!」
両手で頭をかきむしった時、ふと視界の隅に“ある漫画”が映った。
本棚の段の上で、背表紙がこちらを向いている。
ごく普通の一般人が、
正体を隠しながら人助けをする漫画だ。
「……これだ」
呟いた瞬間、蕨の脳内で何かがカチッと音を立てた。
素顔は晒さない。
――音だけなら、正体は絶対にバレない。
宿屋の娘の勇気に応える方法はひとつ。
(……やるか)
自分でも驚くほど静かな、でも確かな決意だった。
次の日の放課後。
いつものように音楽室前の廊下の角で宿屋の娘を見つけた蕨は、
心臓がバクバクするのを無理やり押さえ込んだ。
「あ、あのさ……昨日の話だけど……」
宿屋の娘が小首をかしげる。
「で……出るよ。文化祭。ピアノ」
言った瞬間、彼女の目が一気に見開かれ、
次の瞬間には頬まで赤く染まった。
「……っ! ほ、本当に……!?」
「……ただし!」
蕨は思わず両手を上げて前に突き出した。
「へ、変装するから! 絶対に……内緒。誰にも言わないで」
宿屋の娘は口元を押さえ、ぱちぱちと瞬きをした。
そして――。
ほわ、と花が咲くみたいな笑顔になった。
「……うん。絶対言わない。絶対に」
声が震えていた。
喜びが全部そのまま表情に出ていた。
その瞬間、蕨は悟る。
(……あ、これ……断れなかったやつだ……)
こうして“蕨=ただの住民”は、文化祭ショーにエントリーした。
エントリー名「住民」
以上で第一章が終了です。
第二章を準備出ましたら告知しますので、お気に入り登録等、よろしくお願いします。




