第七話 もう一度、同じ放課後で
目を開ける。見覚えのない天井――いや、違う。
教室だ。手には箒。白いチョークの粉が床に細い筋を描いている。
「……嘘だろ」
感触も空気も音も、やけにリアルだ。本当に戻ったのか。
「日向くん」
背後の声。振り向くと——十五歳の霧ヶ峰翼。
「話があるの。掃除が終わったら、体育館裏に来て」
それだけ告げて、すっと去る。
頭がぐるぐるする。あの日の放課後——ビンタの記憶へ続く、あの瞬間。
体育館裏。
夕日の縁取りの中、彼女は立っていた。
「来たわね、日向くん」
「うん」
「……その身構え、なに」
一歩引けば、一歩詰められる。距離感は攻め型のままだ。
「単刀直入に言うわ。桜井さんがいじめられてるの、気づいてるでしょ?」
「うん。気づいてる。助けよう」
「……へ?」
即答に、霧ヶ峰が目を丸くする。
「相手は桃井さん、沢尻さん、遠野さんの三人。ただし、中心は桃井さん」
僕が淡々と告げると、彼女は瞬きを重ねた。
「……あなた、本当に日向くんなの?」
「たぶん」
「たぶんってなによ」
呆れ半分、警戒半分の声。夕陽が髪の隙間を抜け、頬のラインだけ柔らかく染める。
記憶の中の霧ヶ峰翼と、目の前の翼が、ゆっくり重なっていく。
でも、もうあの頃とは違う。見て見ぬふりはしない。
「説明が省けて助かるわ。今朝、階段で桃井が桜井さんに絡んでた。空気、最悪。私が声をかけたら、あの子たち、露骨に狼狽して逃げた」
僕はうなずく。桜井がいじめられていることは、もう知っている。
原因は――たぶんない。こじつけの理屈はいくらでも付くけれど、いじめの理由なんて、たいていが理不尽だ。
「観察眼のある日向くんがそう言うなら、黒で間違いないわね。うん、ありがと」
そう言って、霧ヶ峰は踵を返した。
……え、ちょ、帰るの? 今の会話、ありがとうで終わる流れだった?
「ちょ、待って!」
思わず腕を掴む。この展開、過去にはなかったな。まさか歴史、ここで変わる?
「どこ行くの?」
「どこって、桃井さんたちのところよ」
「……なんで?」
「なんでって……しめるのよ。イジメはいけないことだから」
うわ、やべぇ。本気だ、この人。そうだった。霧ヶ峰って、昔からこういう正義感の塊だった。やると決めたら一直線。止まるって概念がない。
「暴力じゃイジメは解決しないよ」
「そう? 目には目を、手には手を、でしょ?」
「いや、目には目を、歯には歯を、だから」
「細かい男ね。どっちでも意味は同じでしょ」
細かくない。そういう言葉の精度が大事なんだよ。
「ところで日向くん――」
小さく顎を引きながら、意味深に目を細める。
「いつまで私の腕、掴んでるつもり?」
はっ、として手を放す。
「ご、ごめん!」
「……ふふっ」
霧ヶ峰が、わずかに笑った。その笑みが、ほんの少しだけ、昔より柔らかく見えた。
「なに? 他に解決する方法があるの?」
「……考えはある」
顎に指を当てて頷く。実はこの事態に備えて、いくつか手を用意していた。
そのやり方は、かなりシンプルだ。
「ただ、その方法は、霧ヶ峰さんの協力が必要で」
「いいわよ。なんでも協力する。桃井たち、呼び出して締め上げる? 閉じ込める? それとも脱がす?」
「最後のは、冗談でも笑えないからやめて」
よりにもよって桜井が受けた仕打ちを例に出すな。発想が毎回、極端なんだよ。
「僕がやりたいのは――仲良くしてほしいんだ。桜井さんと」
「どういうこと?」
僕の一言に、霧ヶ峰はぽかんと目を瞬く。
「桜井さんはいつも一人だ。それは彼女本人、孤独になってよくない。霧ヶ峰さんが桜井さんと一緒にいて、普通に仲良くしていれば、桃井さんたちは手を出しづらくなる」
「……そんな単純で止まる?」
納得いかない、という顔。首が少しだけ傾く。
「イジメのきっかけなんて、その程度だよ。今は受験前で皆イライラしてる。捌け口として、たまたま桜井さんに矛先が向いただけ」
そう。理由はたいてい、くだらない。なのに壊れるのは、いつも受ける側の心だ。最悪、命まで奪われる。人間は気持ち悪いくらい、残酷な生き物だ。
「ダメよ。そんな怖い顔しないの」
自分の思考に沈みかけたところで、霧ヶ峰に頬をつねられ、現実に引き戻された。
「わかったわ。その方法でいきましょう」
「えっ、協力してくれるの?」
即答だった。迷いのなさに、むしろこっちが戸惑う。
「当たり前でしょ。何もしないより、何かを試すべきよ。このまま見過ごすなんて絶対に嫌。日向くんの考えに従うわ」
まっすぐで、揺れない目に僕の胸の奥が、ずしんと痛んだ。
前の時間軸では、彼女の方から相談してくれたのに、僕は器用に話をはぐらかして逃げた。
理由は面倒だったから。それだけ。
僕は直接、桜井を傷つけたわけじゃない。けれど「どうせ変わらない」と決めつけ、傍観することを選んだ。
結果、桜井は転校し、二十二年後にあんな惨劇へ繋がってしまう。
悪いのは桃井たちだけじゃない。見て見ぬふりをした僕にも罪がある。
だから今度は、逃げない。必ず桜井をイジメから救い出す。
――そう、強く、強く、胸に誓った。




