最終話 いつか見た未来
観覧車のゴンドラが、ゆっくりと動き出す。
ガラス越しに差し込む夕陽が、街をやわらかな橙に染めていた。
「……綺麗ね」
正面に座る霧ヶ峰さんが、ぽつりと呟く。
「夕陽?」
「ええ。終わりと始まりの境目みたい」
「らしいこと言うな」
「褒め言葉として受け取っておくわ。――和真」
不意に、名前で呼ばれて息が詰まった。
「……今、俺のこと……」
「ええ。和真って呼ぶことにしたの。日向くんは卒業」
「急だな」
「卒業式って、だいたい急に来るものよ」
くすりと笑いながら、霧ヶ峰は胸元から白い封筒を取り出した。
「そういえば、あなたに返してなかったものがあったわ」
「え?」
「二十二年前の卒業式。あなたから奪い取ったもの」
封筒を渡される。開けると、中には古びた紙。
僕の名前が印字された――卒業証書だった。
「ああ、そういえば奪われてたっけ」
「そうよ。私が奪って、二十二年間、これを返す日を待ち続けていたの」
「二十二年も……」
「ええ。でも、ようやく返せる。もう過去に縛られないあなたに」
手の中の紙は少し黄ばんでいたけれど、文字は驚くほど鮮明だった。
まるで、あの春の日のまま時間が止まっていたみたいだ。
「……ありがとう、霧ヶ峰さん」
「霧ヶ峰さんはもう卒業よ。――翼でいいわ」
「それはハードルが高いな」
「多数決で決まったことよ」
「いや、二人しかいないだろ」
「いるわよ。あなたの横に」
……嘘でしょ。霧ヶ峰、幽霊見える人? 普通に怖いからやめて。
「……翼」
諦めて、僕は霧ヶ峰さん――いや、翼の名を呼んだ。
「よろしい。合格点ね」
名前を口にした瞬間、夕陽が少し揺れて見えた。翼はほんのわずかに、照れくさそうに口元を緩める。
視線を下ろすと、地上に二つの影が寄り添っていた。
陽翔と美羽。並んで歩きながら笑っている。その光景が、まるで昔の僕たちを見ているようだった。
「若いっていいね」
「その言い方、完全におじさんよ」
「事実だよ。こっちはもう三十七歳」
「ええ、人生の後半戦ね」
そう言って、翼はくすっと笑った。笑い声が途切れると、ゴンドラの中は静まり返った。
夕陽が角度を変え、翼の横顔を金色に縁取る。
「ねえ、和真」
「ん?」
「私たち、たぶん恋人にはならないと思う」
「……だろうね」
「でも、友達なら……きっと続くと思う」
「うん。一生ものだ」
「ふふ。悪くない答えね」
少しの沈黙のあと、彼女は視線を外へ向けた。
街の灯りが少しずつ点きはじめる。
「ねえ、和真。あの頃の私たちに今の私たちを見せたら、どう思うかしら」
「たぶん笑う。悪くない未来じゃんって」
「……そうね。悪くないわ」
最上点を通り過ぎる。
観覧車の窓に映る二人の姿は、もう十五歳の頃の僕らではなかった。
けれど、どこかで繋がっている気がした。
「この証書、あなたに返せてよかった。私にとっても、区切りだから」
「区切り、か」
「ええ。これでようやく、十五歳の私を許せる。ずっと背中を向けていた自分に、ようやく手を伸ばせた気がするの」
「……翼」
「もういいの。今は言えるから」
そう言って、翼は少しだけ泣きそうな笑顔を浮かべた。その表情を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ゆっくりとゴンドラが降りていく。
下では、陽翔が美羽の頭を軽く撫でている。
美羽が笑って、それに照れたように肩をぶつけた。
「きっと、あの子たちは、これからもいろんなことにぶつかるわ」
「ああ。でも、僕たちはもう手を出さなくていい」
「ええ。親として、ただ見守っていきましょう。遠くからでも、ちゃんと」
「……それが親ってやつだな」
「そうね。私たちも、ようやく過去を卒業できたのかも」
カタン、と小さな音がして扉が開いた。
翼は立ち上がり、夕暮れの風をまとって振り返る。
「ありがとう、和真。過去をちゃんと終わらせてくれて」
「礼を言うのは僕の方だよ。――翼、ありがとう」
「また会いましょう。友達として」
「もちろん」
地上に降りると、夜風が頬を撫でた。観覧車の光が輪を描き、空の星と一緒に瞬いている。
前を歩く陽翔と美羽ちゃんが、同じ空を見上げて笑った。
ああ、これでいい。
過去も、後悔も、この光の中に溶けていく。
僕たちはもう、前を向いている。
――そして未来は、彼らに託そう。
振り返ると、観覧車がゆっくりと回り続けていた。
その輪の中心に、確かに“和真”と“翼”がいた。
そして、二十二年前の春に取り残された“日向くん”と“霧ヶ峰さん”が、ようやく笑顔で手を振っていた。
その笑顔の先で、未来が静かに動きはじめていた。
完




