第三十九話 幸福な世界で、ちゃんと君が笑っていた
ロビーに出ると、幸いにもクラスメイトの姿はなかった。
できるだけ目立たない隅のソファへ歩き、腰を下ろす。指の腹で目尻を押さえると、湿った冷たさが指先に移った。
僕が未来を変えたから、あの同窓会の悲劇は起きない。誰も死なない。
三年B組のみんなは、きっと穏やかで、ちゃんと幸福な人生を歩いていくはずだ。
ただ、その代わりに――美羽という、たった一人の存在を、消してしまって。
彼女は言った「自分は生まれてこない方が幸せなんだ」と。
そして皮肉にも、美羽が生まれてこなかった世界線の霧ヶ峰は、確かに幸せそうだった。
落ち着いた表情。指輪の光。満ち足りた生活の気配。
だとしたら、これで良かったのか。
「……いいわけ、ないだろ」
声に出した瞬間、胸の奥がきしんだ。涙があふれる。拭っても、拭っても止まらない。
呼吸のたびに喉が焼け、肺がうまく膨らまない。
僕は何を守ったのだろう。
救ったはずの未来は、本当に正しい未来だったのか。
――生まれない方がいい。
そんな言葉を、彼女に信じさせてしまったのは、他でもない僕じゃないか。
目を閉じれば、陽翔と並んで笑う美羽ちゃんの横顔が浮かぶ。
伸ばした指先は、いつも少しだけ届かない。
「……ごめん。ごめんな、美羽ちゃん」
声を殺して肩が震える。
遠くの笑い声だけが、やけに澄んだ音で胸に刺さった。
そのとき――足音がひとつ。ロビーの静けさを、柔らかく踏みしめる音。
その足音は近づき、僕のすぐ後ろで止まった。
そして、少し緊張したような声が斜め後ろから落ちてくる。
「……あの、大丈夫ですか?」
静寂。
――ああ、この人、僕に声をかけてきたのか。涙を拭うのが間に合わず、僕は顔を上げないまま答えた。
「ええ、大丈夫です。気にしないでください」
自分でも驚くほど乾いた声だった。
これで立ち去るだろう――そう思ったのに、足はその場を動かない。
まるで、ここにいる理由を探すように、静かに立ち尽くしている。
「……和真さん」
その名を呼ぶ声。雫が落ちたような、小さくて澄んだ響き。
――聞き覚えがある。
僕は反射的に顔を上げた。
そこにいたのは、霧ヶ峰美羽だった。
「……美羽、ちゃん? え、なんで君が……」
頭が追いつかない。心臓だけが先に跳ねた。現実感がぐらりと揺れ、涙が止まる。
「あーあ。顔、ぐちゃぐちゃですよ」
美羽は困ったように笑い、鞄のポケットからハンカチを取り出した。白い布がふわりと揺れ、僕の目元を優しく拭う。
「ちょ、ちょっと……! 何やって――」
「動かないでください、拭きづらいです」
涙で赤くなった目のまま、年頃の女子中学生に顔を拭かれている三十代のおっさん。状況を冷静に理解した瞬間、羞恥心が脳天から爆発した。
え、なにこれ。地獄の罰ゲーム?
「うわ、だめだ。恥ずかしすぎて死ぬ……!」
「大げさですね」
美羽はくすりと笑い、少しだけ目を細めた。
「……でも、泣いてる和真さん、なんか、ちょっと可愛いかも」
その一言で、また胸の奥が熱くなる。さっきまで冷たかった世界が、ゆっくりと色を取り戻していく。
「クククッ」
途端、横から吹き出すような笑い声。視線を向けると、まさかの陽翔が立っていた。
「父さん。マジで……男泣きじゃん」
号泣している父親がそんなに面白いのか、陽翔は笑いをこらえている。
いや、違う。こらえきれていない。めっちゃ爆笑だ。
――妻よ、息子は立派に育ちました。
「てか、陽翔。お前なんで……ここに」
「翼さんに頼まれたんだよ。“同窓会でドッキリ仕掛けたいんだけど、最悪、日向くんが絶望して取り返しのつかない状況になるかもだから、ロビーで美羽は待機させておけ”って。で、俺は最後にここからちゃんと見送る村人A役ね」
なにが“村人A役ね”だ。
朝の時点で美羽のことを聞いたら、名演技で知らん顔しやがって。完璧に騙されたじゃないか。
「和真さん。お話したいことは山ほどありますが、また次の機会に。今日は同窓会を思う存分、楽しんでください」
「ああ。美羽は、ちゃんと俺が送り届けるから」
「そうか。――ところでお前ら、やっぱ付き合ってるの?」
「「付き合ってない!!」」
見事に声が揃った。ああ、この響き、懐かしい。
「じゃあ、行ってくる」
そう言い残して、僕は二人に軽く手を振り、会場へ戻った。




