第三十七話 二十二年越しの乾杯は、あの日の涙を越えて
そのとき、場の空気がわっと弾けた。
出入り口のほうに人だかりができ、陸がそちらを見やる。つられて僕も視線を向けると、笑顔と歓声の中心に懐かしい顔があった。
「おお、村井先生だ!」
「ほんとだ……変わってないね」
背筋の伸びた姿勢に、穏やかな笑み。年齢を重ねたはずなのに、あの頃よりも精悍で頼もしさが増していた。
生徒たちの間を丁寧に挨拶しながら進み、やがて僕たちのテーブルに近づく。
「おお、久しぶりだな!」
「村井先生! ご無沙汰しております!」
慌てて立ち上がり、深く会釈する。
先生は四十代後半か五十代。白髪の混じる髪に、渋みを帯びた笑顔――昔の熱血教師よりも、ずっと柔らかい雰囲気を纏っていた。
「おっ、そういえば陸と詩音、結婚したんだってな。おめでとう!」
「ありがとうございます!」
陸は嬉しそうに頭を下げ、それから僕の肩に腕を回す。
「失踪してた親友がやっと戻ってきたんで、今年こそ結婚式やります。先生もぜひ!」
「失踪?」
先生が苦笑して目を細める。
「……ああ、和真のことか。噂になってたぞ。どこ行ってたんだ?」
「まあ、いろいろありまして」
――今日、何回目だろう。この言い回し。
苦笑いを浮かべる僕に、先生は「まったく、お前らしいな」と肩を叩いた。
そのとき。
「村井先生、久しぶりですね」
すっと間に入ってきたのは桃井。先生は一瞬目を細め、それから呆れたように笑った。
「なんだ、久美か。お前の顔はもう見飽きたよ」
「ひどーい! せっかく挨拶したのに!」
クスクスと笑いが広がる。どうやら今でも顔を合わせる関係らしい。
僕がぽかんとしていると、先生が陸に耳打ちする。
「あれ、久美のこと知らない奴いたのか。有名な話なのに」
「まあ……和真は浦島太郎ですから」
二人してニヤニヤしながらこちらを見てくる。まるで先生と生徒が、立場そのまま時間だけ進んだようだった。
そんな中、桜井がくすっと笑い、優しく補足した。
「久美ちゃんね、スクールカウンセラーになったんだよ」
「スクールカウンセラー?」
思わず聞き返すと、桜井は手を胸の前で組み、穏やかに頷いた。
「生徒たちの心のケアをするお仕事だよ。いじめや家庭のこと……いろんな悩みを抱えてる子が多いでしょ? 先生ひとりの力じゃどうにもならないときに、そばで支えてあげるの」
やわらかな口調なのに、どこか現実の重みを帯びた言葉だった。
「桃井はな、中三のころから“人の心を助ける仕事がしたい”って言ってたんだ」
村井先生が懐かしそうに天井を見上げる。
言われてみれば――確かに、卒業式の日、夢があるとか、そんな話をしていた気がする。
「本当はね、夢が叶ったとき、一番に報告したかったのが日向くんと翼ちゃんだったんだって。翼ちゃんには伝えられたけど、日向くんには全然連絡がつかなくて……その時、久美ちゃん、すっごく怒ってたんだよ。“あいつ、どこ行ったのよ!”って」
胸の奥がじんと熱くなる。
――ああ、そうだった。
あの頃の彼女は、誰よりも真っすぐで、誰よりも不器用だった。人を傷つけてしまうこともあったけれど、そのぶん、誰かを救いたいと心から願える人でもあった。
夢が叶ったら真っ先に報告したい。その無邪気な言葉を、僕はちゃんと覚えている。
かつて“加害者”だった桃井が、今は“救う側”に立っている。
泣いて、傷ついて、それでも前に進んで。あの涙を力に変えて、今日ここに立っている。
どれほどの夜を越えて、この場所にたどり着いたのだろう。
気づけば、視界が少し滲んでいた。嬉しくて、切なくて、誇らしくて。
彼女の人生が、あの痛みの続きを、ちゃんと“希望”に塗り替えていたことが、ただ、たまらなく嬉しかった。
「後で、ちゃんとおめでとうを言いに行こう」
桜井の言葉に、小さく頷く。
――その直後だった。
場内の空気がふっと変わる。ざわめきが波紋のように広がり、視線が一斉にステージへと集まる。
照明が落ち、スポットライトが一点を射した。
そこに立っていたのは、桃井久美。
「今日はみんな、集まってくれてありがとうーっ!」
明るく弾む声。
てっきり落ち着いた挨拶が始まると思っていた僕は、思わず笑ってしまう。
ステージの上で手を掲げるその姿は、まるでロックフェスのMCのよう。
笑いと拍手が重なり、会場全体が一気に明るく染まる。
「それじゃあ、乾杯の挨拶はこの人にお願いしまーす!」
桃井が手を伸ばし、声を張る。
「――霧ヶ峰、翼さーん!」
名が響いた瞬間、空気が揺れた。
ステージ袖から、一人の女性が現れる。
青い花柄のノースリーブドレス。照明を反射して、黒髪が静かに揺れた。
歩くたび、光の粒がこぼれるようで、その姿はどこか現実離れして見える。
「……霧ヶ峰さん」
息をのむ。
長かった髪は肩で切りそろえられ、背筋はまっすぐに伸びている。
二十二年前よりも大人びて――けれど、変わらず凛とした空気をまとっていた。
笑っているのに、どこか切なげな眼差し。
あの頃の少女が、そのまま時間のフィルムをくぐって現れたみたいだった。
彼女はマイクを受け取り、もう片方の手でグラスを掲げる。
琥珀色のビールが照明を受けてきらめく。
「みんな……本当に、久しぶりね」
その一言で、会場がしんと静まる。落ち着いた声なのに、ほんの少し震えていた。
――たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
二十二年分の時を越えて、霧ヶ峰翼がそこにいた。
強く、美しく、そして、少しだけ儚く。
あの桜の下で交わした約束の続きを語るように。




