第三十五話 三度目の未来で、君はいなかった
階段を降りてリビングへ向かうと、ソファに腰を沈めてテレビを見ている陽翔の姿があった。
「陽翔!」
「お、おはよう……なに、その朝からフルスロットルなテンション」
僕の勢いに、陽翔は半歩だけ身を引く。
「いや、三度目のタイムスリップから戻ってきたんだよ。ほら、今度はリビングじゃなくて布団の中で目が覚めてさ。びっくりして――」
「……父さん、なに言ってるの?」
目を白黒させる陽翔。
――え? その反応は想定外だ。
「一緒にいただろ。アルバムの写真、未来を変えたじゃん。あ、そうだ、美羽ちゃんは? もう帰ったの?」
三度目の時間跳躍では、眠る間もなく過去へ飛ばされた。……でも、あの場にいた陽翔と美羽はどこへ消えた?
胸の奥で、音のない不協和音が鳴る。世界の歯車が、一枚だけ違う形で噛み合っている感触。
陽翔はリモコンを置き、ゆっくりと僕を見た。
「父さん……美羽って誰?」
――まさか。過去へ戻った瞬間、彼女の存在ごと、なかったことになったのか。
「今日、父さん、同窓会だろ?」
同窓会。その言葉に、脳裏で何かが弾ける。
僕は慌てて案内状を探し出し、封を切った。
『拝啓 早春の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。さて、このたび、富谷第三中学校三年B組の同級会を下記のとおり――』
文面は同じ。だが、最後の一行で指が止まる。
幹事・桃井久美。
呼吸が浅くなる。幹事は桜井じゃない。
――どういうことだ? 桃井が真犯人? いや、彼女は被害者側だったはずだ。
桜井は無事なのか。スマホを開くが、連絡先に三年B組の名は一つもない。空白が、画面にぽっかりと口を開けていた。
考えても、推測は推測のまま。
――行くしかない。同窓会へ。
真相は、あの会場に置き去りにされている。
時刻は十七時三十分。
同級会の会場となるホテルのエントランス前で足を止め、ガラス越しにそびえる建物を見上げた。
七月の空はまだ明るく、むっとする湿気が肌にまとわりつく。
――この感じ、デジャヴ。
同じ風、同じ景色。未来をやり直している以上、当然のはずなのに、不安が頭をもたげる。
そういえば、ここで陸が――。
視線を巡らせた、そのとき。
「――あれ、日向くんじゃない?」
肩まで伸ばした髪が揺れる。振り向くと、入口脇に女性が立っていた。
瞬きののち、記憶の引き出しが音を立てて開く。
「もしかして……沢尻さん?」
「おお、すごい。絶対、忘れられてると思ってたのに」
ぱん、と軽く肩を叩かれる。
無邪気な笑顔は、あの頃の面影をそのまま残していた。
――つい三時間前に話したばかりのはずなのに、大人になった輪郭を見つめると、胸の奥に懐かしさが滲んだ。
「久しぶりだね。中学以来、かな?」
自分の言葉が時系列を踏み外していないか、慎重に舌で確かめながら口にする。
すると、沢尻はふっと眉を寄せて表情を曇らせた。
「本当だよ。中学の卒業後しばらくして、結構な噂になってたんだから。――日向くんが消えたって」
夕方の光がガラスに反射し、沢尻の横顔を縁取る。
「一ノ瀬くんが言ってた。実家に行ってもなかなか捕まらなくてさ。久美も……かなり会いたがってたよ」
「ごめん。……冷たいって、噂になった?」
喉の奥がひりつく。
「冷たい? そんなこと、誰も言ってないよ」
彼女は小さく首を振り、少しだけ柔らかい笑みを作る。
「霧ヶ峰さんのおかげ、かな」
「霧ヶ峰さん?」
名前を反芻した途端、胸の奥がかすかに疼く。
「うん。たしか高一の夏ごろ『日向くんを探してる』って噂が広がったとき、霧ヶ峰さんがね、一ノ瀬くんや久美を集めて、探すのはやめようって説得したんだって」
沢尻は思い出すように目を細めた。
「久美が言うには、詳しい理由は何も言わなかったらしいの。けど、霧ヶ峰さん、ものすごく寂しそうな顔しててさ。その顔を見たら、もう従うしかないって思ったって」
アスファルトの熱が、夕風にさらわれていく。
目に見えないところで、誰かが静かに守ってくれていた。その事実だけが、胸の奥でじんわりと広がった。
そっか。僕がタイムスリップしていたことを知っているのは、霧ヶ峰だけ。
二十二年後、戻ってくる僕のために、誰にも気づかれないよう、席を残してくれていたのかもしれない。
ただ一つ引っかかるのは、あの記憶が本当に彼女の中に残っているのかどうかだ。
「遠野さんとは今でも仲いいの?」
「ああ、裕美? うん、たまに連絡は取るよ。でも最近は忙しいみたい。今日も来られないって」
「忙しいって、仕事で?」
「ううん。去年、子どもが生まれたの。苗字も相沢に変わってるよ。いまは目が離せない時期で、旦那さんに丸投げは無理だからって。今回は泣く泣く欠席」
「そっか。幸せそうでよかった。……あ、沢尻さんも、いまは沢尻じゃない?」
流れで訊くと、彼女は苦笑いで肩をすくめた。
「残念ながら、まだ沢尻のまま。彼氏はいるんだけど、ぜーんぜん結婚する気なさそうでさ。捨ててやりたいけど、私たちもう三十七でしょ? 一人になる勇気がね」
「……そっか」
「日向くんは?」
「僕は結婚したよ。ただ、妻は七年前に事故で……」
「――あ、ごめん」
気まずそうに目を伏せる彼女に、僕はゆっくり首を振った。
「大丈夫。息子がいるから。なんの因果か、十五歳。中三の時の僕と同じ年だ」
「えー、息子くん! 中三って、当時の私たちそのまんまじゃん。うわ、顔見たい!」
「あとで写真見せるよ」
「やった」
ほっと緩んだ口元で彼女が笑う。
「じゃ、行こっか。――きっとね、日向くんに会いたがってる人、たくさんいるよ」




