第三十四話 二十二年後の同級会
中学最後の晴れ舞台。
鞄と卒業証書を片手に、僕は校庭の桜並木へ向かった。
式はもう終盤。校門へと流れていく生徒が多く、並木道は驚くほど静かだ。
薄い雲の切れ間から差す光が、枝先の蕾と早咲きの花びらをやわらかく透かしている。風が抜けるたび、紙吹雪みたいな花弁が数枚だけ、ふわりと舞った。
すぐに見つけた。桜の幹にもたれ、空を見上げている霧ヶ峰。
白いコートの襟元から覗く薄桃色のマフラーが、さっきの風に小さく揺れていた。
「ごめん。待たせたよね」
声をかけると、彼女はぱちんと瞬きをしてこちらを向く。
少しこわばった表情のまま、いきなり頭を下げた。
「日向くん。急に呼び出して、ごめんなさい」
――え? 思わず固まる。反射的に口が動いた。
「……誰だ、君は?」
「えっ?」
「いや、だって霧ヶ峰さんなら『待ったわよ。何時間待たせる気?』って、まず棘から入るじゃない?」
言った瞬間、彼女の頬がぷくっとふくらみ、次の瞬間、こつんと肩を軽く小突かれた。
「なにそれ。私をどんな人間だと思ってるのよ」
――いや、実際に言われた記憶が、うっすらあるんだけど。
俯いて小さくため息を吐いた彼女は、気まずさをごまかすように空を見上げた。
「あーあ、今日くらい、可愛い私でいたかったわよ」
尖らせた唇が、いつもより少しだけ幼い。肩の力がすっと抜けたのがわかる。
「僕は、普段の霧ヶ峰さんが好きだよ」
「よく言うわね。私のこと、フッたくせに」
「いや、フッてはないからね。……たぶん」
ふたりで同時に苦笑する。
風がまた通り、花弁が三枚、四枚と僕たちの間に落ちてきた。
逆光に目を細めると、彼女の横顔の輪郭が、光の縁取りをまとって見える。
「今日はね、ちゃんと気持ちの整理をつけたくて呼んだの」
彼女は一歩だけ近づき、胸の前で指をぎゅっと組む。
「前は……ちょっと、なぁなぁのまま言っちゃったから。今度はちゃんと、真剣に伝える」
深呼吸。そして、まっすぐに。
「――日向くん。私は、あなたが大好き」
澄んだ声に、嘘はひとつもなかった。冬の名残をほどいた空みたいに、まっすぐで透明な瞳。
「あなたとは結ばれないって、わかってる。でも、この気持ちだけは……ちゃんと伝えたかったの」
距離が近い。白いマフラーの端が風に揺れ、頬にかすかに触れた。
彼女はそっと、指先で僕の頬をなぞり、にっこり微笑む。
つい、と背伸び――羽が触れるみたいに、短いキス。
胸の奥で跳ねた鼓動が、耳まで上がってくる。思わず肩がびくりと揺れた。彼女は上目遣いでこちらを見つめる。
「これは……ファーストキス、です」
なぜか敬語。自分からしておいて、耳まで真っ赤だ。
「そ、そうなんだ。僕はファーストキスじゃないけど」
「は? そこで言う? 空気読んで?」
「あ、うん。ごめん、反射で」
「反射でキズつけないでくれる?」
むすっと僕の襟元を軽くつまむ。けれど、目尻は笑っていた。
――不思議だ。胸の底にあった重たい不安が、少しずつ溶けていく。
僕がぼんやりしている隙に、彼女はするりと僕の手から卒業証書の筒を奪った。
「ちょ、返して」
「嫌よ。これは私が預かるの」
「なんで?」
「嫌がらせよ」
なんの嫌がらせだよ?
彼女はひょいと距離を取り、宝物みたいに胸に抱きしめた。
「二十二年後、同級会で返すわ。……私たちは平行線。重なりはしないけど、ずっと並んで進める。そういう関係でいたいの」
強い意志の光。可笑しくて、でも愛おしい。
「ありがとう。でも……二十二年って、思ってるより長いよ」
「大丈夫。楽しいことも、辛いことも、人生でしょ。あなたの“昔話”みたいな話を信じて、二十二年後は――娘と一緒に、ちゃんと迎えに行く」
「うん。じゃあ、あんまり期待しすぎないで待ってる」
叶わないと知りながら、それでも焼き付ける。
逆光の桜並木、風に揺れる前髪、照れ笑い。全部を心の奥に。
「じゃあ、約束。ここからは――振り返らないで別れよう」
「……うん」
「日向くん。また二十二年後の同級会で、お会いしましょう」
彼女は卒業証書の筒を掲げ、ぴしっと敬礼。
僕も同じ角度で敬礼を返す。
どちらが先ともなく、ふたり同時にくるりと背を向け、歩き出した。
同じ空気を吸いながら、別々の未来へ。
彼女はきっと、転んでも何度でも立ち上がる。僕も、僕の足で前へ進む。
――そして願う。二十二年後、懐かしくて新しい“はじまり”として、あの約束が、僕の大切な思い出でありますように。
シャッター音みたいな、乾いた“パチン”が――どこか遠くで鳴った気がした。
視界がふっと滲み、桜色はゆっくりと白へと溶けていく。
音が、まるで潮が引くみたいに遠のいて、世界が静止した。
次の瞬間、僕は目を開けた。
そこは、リビングではなかった。布団の中。……けれど、天井を見上げた瞬間、息を呑む。
「ここ……自宅だ」
寝起きの重い頭を抱えながら、隣のスマホに手を伸ばす。
画面に映った日付を見た瞬間、言葉を失った。
――2025年7月18日。
同窓会があった、あの日だ。
胸の奥で、何かが静かに跳ねる。
夢ではない。確かに戻ってきた――あの未来に。
同窓会。
ここで答え合わせか。きっと、もう一度、この手で確かめなきゃいけない。
未来は変えられたのか。
それとも、また惨劇が待っているのか。
世界はまだ、終わっていない。
そして、物語も――。
第四章 終




