三十三話 桜並木の向こうへ
教室を出ると、少し離れた位置に桜井が立っていた。
午後の光が差し込み、黒髪がやわらかく光を返している。
「どうしたの? 教室じゃ話せない内容だった?」
呼び出された僕は首を傾げる。桜井は周囲を見回し、誰もいないのを確かめてから、こくりと頷いた。
「うん。……翼ちゃんから伝言を預かってきたの」
「霧ヶ峰さんから?」
なんだろう。まさか、殺してやるとかじゃないよな……。
「校庭の桜並木の前で待ってるって」
「何の用かな?」
「それは行ってからのお楽しみ――って言いたいけど、私も知らないの」
ぺろっと舌を出して、少しおどける。
けれど、そのあとふいに、教室の方を振り返った。
「……私ね、この一年、すごく楽しかったの」
名残惜しさと温かさが混じった声だった。
「本当は、卒業したくないんだ」
「あれ、桜井さん、高校は陸と同じじゃないの?」
「うん。でも、そういうことじゃないの。たしかに陸ちゃんと同じ学校なのは嬉しいよ。でもね……私は、ずっと翼ちゃんや久美ちゃん、日向くんがいるこの教室にいたかった」
微笑む桜井の表情は、どこか切なげだった。
「不思議だよね。最初は毎日学校に来るのが嫌で、早く卒業したいって思ってたのに。今は、寂しくて離れたくない」
瞳が潤み、光をやさしく返す。
「こんな気持ちになれたのはね、真っ暗な世界で手を差し伸べてくれた日向くんのおかげなんだよ。本当にありがとう」
胸の奥が熱くなる。僕は静かに首を振った。
「僕のほうこそ、ありがとう」
そっと手を差し出すと、桜井は両手で包むように握り返してくれた。
「……あの時さ、僕は桜井さんを助けることしか考えられなかった。桃井さんを孤立させるような、最低なやり方まで使って。――でも桜井さんは、桃井さんも救いたいって言った。その言葉がなかったら、きっと今でも僕は皆と距離を置いたままだった」
「ごめん。私、あの時わがまま言ったよね。けど、結果的にみんな仲直りできてよかった。
……でもね、時々思うの。人生って、そんなに優しくないのかなって。誰かを守るために、誰かを傷つけちゃうのも仕方ないのかなって」
「桜井さん、それは違う!」
思わず声が強くなる。握っていた手に、知らず力がこもった。
「誰かを守るために、誰かを蹴落とす――そんな選択肢を、最初から作っちゃダメだ。それを持つと、いつか大切なものまで壊す……桜井さんには、そういう人になってほしくない」
一瞬の沈黙。桜井は目を瞬かせ、頬を染めた。
「……ああ、ほんとだ。惚れちゃうな」
「え?」
「ああ、ごめんね。陸ちゃんが言ってたの。『和真は普段ぼーっとしてるくせに、たまに人の心に真っ直ぐぶつかってくる。その時の和真は、男でも惚れるくらい真剣だ』って」
「……陸のやつ、余計なことを」
顔をしかめると、桜井がふっと笑う。
「でもね、私もわかる。翼ちゃんが日向くんを好きになる理由」
やわらかい声。その奥で、わずかに震えが混じっていた。
窓からの斜陽が、黒髪を淡く縁取る。
「翼ちゃんは強がりだけど、本当はすごく繊細なんだ。お化け屋敷は入れないし、映画は私より先に泣いちゃう。でもね、誰かを守るってなったら、いつも一番前に立つ。怖くても――翼ちゃん、言ってたよ『日向くんは、私の強さも弱さも、ぜんぶ見てくれる』って」
「……そうだったんだ」
胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
あの横顔、ふと逸らす視線。その裏側にある震えまで、見ていたつもりで、見きれていなかった。
「うん。だから――翼ちゃんを救って。……それが、私たちの卒業だから」
まっすぐに言い切る声。
その瞳には、少しの嫉妬も打算もなく、ただ友達を思う透明さだけがあった。
「わかった」
短く答えた声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
手のひらに残るぬくもりが、静かに背中を押す。
廊下の向こう、校庭へ続く階段に光の帯が伸びている。
そこに立っているはずの彼女の姿を思い浮かべると、鼓動が一拍、強く跳ねた。
逃げない。隠さない――ちゃんと、言葉で向き合う。
「行ってくる」
そう告げて一歩を踏み出す。
革靴が床板を鳴らすたび、胸のざわめきは形を変えて、決意に近づいていった。
桜並木の下へ。
彼女のもとへ。
僕は、まっすぐ向かった。




