第三十二話 この教室で、僕らはやっとクラスになれた
体育館から教室に戻る。
村井先生が黒板の前に立ち、三年B組のみんなに向けて最後の言葉を贈った。
これまで乗り越えてきた数々の出来事――笑い合った日々、ぶつかり合った日も。
そのどれもが、この教室の今を作っている。
先生の言葉に、クラスのあちこちで鼻をすする音が混じった。涙を流す生徒も少なくない。
――前の世界では、こんな光景は一度もなかった。
誰も泣かず、淡々と終わった卒業式。その時の僕は、ただ「終わったこと」に安堵して、校門を振り返りもせずに歩き去った。
けれど今は違う。涙を流す仲間がいる。その涙が、僕たちが本当の意味でクラスになれた証拠なんだと思った。
最後のホームルームが終わっても、誰も席を立とうとしなかった。
皆、別れを惜しむように話し込み、笑い、泣いていた。窓の外では、うっすらと雪が解けて、春の匂いが混じり始めている。
前の世界では、僕は誰とも言葉を交わさずに教室を出て行った。その背中を見て、母さんが後で言ったのを覚えている。
――「あんたの中学生活って、なんだったの?」
あの時は気にも留めなかった。けれど、その言葉だけは、二十二年経っても心の奥に刺さっていた。
だから、今度こそ。そう思って、僕は席を立った。
その瞬間、数人が卒業アルバムを抱えて僕のもとへ駆け寄ってきた。
「和真! 俺のアルバムに一言、書いてくれよ!」
「ああ、ずるい! 日向くん、私のにも書いて!」
四人の男女が僕の周りを取り囲む。その顔ぶれを見て、胸が熱くなった。
文化祭で同じグループだったメンバーたちだった。
三年B組の文化祭は演劇。
言い出しっぺは桃井。最初は全員が「面倒くさい」と口をそろえた。
それでも霧ヶ峰や陸が「どうせやるなら本気で」と押し切って、結局は全員参加に決まった。
僕は少しだけギターが弾けるという理由で、吹奏楽の女子たちとドラム担当の男子を合わせたサウンドチームに放り込まれた。
リーダーなんて柄じゃなかったけれど、せめて支えになりたい一心で引き受けた。
最初のうちは、やる気のない空気が漂っていた。
「ねぇ、もう塾あるから帰っていい?」
「なんでそんな本気になってるの? 日向くんってそういうキャラだっけ?」
そんな言葉ばかりが飛び交う中、僕はひとり、放課後の教室でギターを鳴らし続けた。
誰も見ていなくてもいい。不器用な僕にできるのは、背中で示すことだけだった。
でも、それから一週間も経たないうちに、みんなが自分の意志で集まってくるようになった。
「中学最後の文化祭だし、全力でやろうよ」
「もう一回合わせよう、音ズレてる」
気づけば、誰もが本気で音を重ねていた。
そして文化祭当日。僕らの演劇は大成功に終わった。
終演後、鳴り止まない拍手の音が、今も耳に残っている。
まるで雨のように降り注ぐ拍手の中で、涙を流す者もたくさんいた。
それだけ、みんなが本気で取り組んできたということが――誰の目にもはっきりと伝わっていたのだと思う。
文化祭が終わった後も、その四人とはよく話すようになり、自然と仲の良い友達になっていた。
互いの卒業アルバムにコメントを書き終えると、「またね」と笑いながら、それぞれ手を振って去っていった。
――その笑顔が、眩しいほどに優しかった。
「日向くん。私のにも書いてよ」
さっきの四人が去ったあと、今度は沢尻と遠野がアルバムを抱えて現れた。
「うん、いいよ」
互いにアルバムを交換する。
先に遠野のページにペンを走らせて手渡すと、彼女はまっすぐ僕を見た。
「日向くん。詩音の件、本当にありがとう」
「ううん。僕も強引なやり方をして、ごめん……思い返すと、もっとやりようがあった気がしてさ」
「違うよ。あの時は、あれでよかったの。久美を裏切ってた間に、自分がやったことの重さを噛みしめられたから。……孤立させた久美には申し訳なかったけど」
少し複雑に笑って「ありがとね」と頭を下げ、遠野はアルバムを抱えて去っていく。
続いて沢尻と交換し、互いに一言ずつ書いて閉じる。
「あーあ、残念だな」
「えっ、なにが?」
「ほんとはさ、日向くんともっと仲良くしたかったんだよ。いつも翼や詩音と一緒だから、遠慮してたけど」
冗談めかしながらも、どこか照れた顔だ。
「でも、お別れじゃないしね。これからも、よろしく」
差し出された手を握り返すと、指先にほんのり力がこもった。
「はーい、次は私の番~」
背中から肩をぽん、と叩かれ、振り向くと桃井がニヤリと笑った。
「あ、桃井さん。アルバムも――」
「私はいいよ。思い出は心に刻むタイプだから」
胸に拳を当てて得意顔。どうやら本当にアルバムは持っていないらしい。
「日向くん、私はありがとうは言わない。私たちはもう、友達だから」
その目はまっすぐで、やわらかい。
「それとね――私、夢ができたの」
「噂は聞いてた。どんな夢?」
「ひみつ」
自分で振っておいて微笑む。
「でも叶えたら、最初に翼と日向くんに報告する。だから、急にいなくならないでよ?」
胸の奥がちくりとする。
「……うん、待ってる。高校でも剣道、続けるんだよね」
「もちろんよ。詩音にリベンジしなきゃ。日向くんもサッカー続けるでしょ?」
「そのつもり」
「絶対続けて。日向くんのサッカー、私すごく好きだった。泥臭いのに、目が離せないんだもん。――愛なんて、感動して涙ぐんでたよ」
ちょっと大げさに笑ってから、彼女は手を差し出す。
「じゃ、健闘を祈って――握手」
「うん。夢、叶えてね」
手を握り返すと、桃井は満足そうに頷いた。
「次、私いいかな?」
ふたりの間に、桜井が静かに入ってくる。
「もう、詩音。そんな急かさないの。アルバムのコメントなら後でいくらでも――」
「違うよ、久美ちゃん」
桜井はやわらかく首を振り、でもはっきりと言う。
「私、日向くんと話したいの。少し、廊下いい?」
「……うわー、やられた。恥ずいわぁ」
桃井は悔しそうに唇を尖らせたが、すぐにふっと笑って僕の肩を軽く小突いた。
「じゃあね、日向くん」
その一言に、ほんの少しの寂しさと、温かさが混じっていた。
桃井は桜井と目を合わせ、どちらからともなく微笑み合う。
かつては、誰かを傷つけてしまった三人。でも今は、それぞれのやり方で、過去ときちんと向き合おうとしている。
その姿を見て、胸の奥がじんと熱くなった。
――人は変われる。
そう信じられるだけの時間を、僕はこの一年で過ごしてきたのだと思う。




