第三十一話 そして、僕はこの世界を卒業する
卒業式当日。ついに、この日がやってきた。
長いようで、短い一年だった。
けれど、たった一つだけ確かなことがある。
――誰に誇ってもいいほど、充実した一年だったということ。
後悔はない。これで未来が変わっていなかったとしても、僕はその現実を受け入れるつもりだった。
朝。制服の襟を正していると、背後に母さんの姿が映った。手を腰に当てて、じっと僕の様子を見ている。
「鏡、使う?」
「ううん。使わない。……今日、卒業式ね。どう? 気分は」
母さんは僕の足先から頭のてっぺんまでを見上げ、ふっと柔らかく笑った。
どこか誇らしげで、少しだけ寂しそうな笑みだった。
「うん。やっぱり、寂しいかな」
「寂しい、ね。……なんか和真、変わったわね」
「えっ、そうかな?」
「うん。前はもっと冷めてたのよ。卒業式でも別に。って言いそうなタイプだったのに。いつからかしらね、人の目をまっすぐ見て話すようになったの」
確かに、前の世界ではそうだった。
卒業式の日も、名残惜しさなんて感じなかった。最後に校門を出るときも、振り返りもせずに通り過ぎた。
中学三年間、思い出らしい思い出なんてなかった。みんな、ただの表面的な関係で。僕は次のステージでうまくやれるか、それだけを考えていた。
「母さんも後で行くから。……最後、ちゃんと頑張ってきなさい」
そう言って、母さんは軽く背中を叩いた。その掌のぬくもりが、不思議と心に染みた。
「うん。行ってきます」
姿勢を正し、家のドアを開ける。
外はまだ冷たい冬の空気。でも、遠くの空にはかすかに春の匂いが混じっていた。
――これで、最後の一日が始まる。
体育館。定番ともいえる校長先生の長い話が始まった。
マイクの反響する声が、冬の名残を残した空気の中に淡く伸びていく。
ざわめきひとつない静寂のなかで、僕はその声を聞き流していた。
けれど、心はまったく別の場所にあった。
始業式の時とは、まるで違う。
あの頃の僕は、ただ「未来を変えること」だけを目的にしていた。過去をやり直して、誰かを救う――それだけを、機械のように信じていた。
でも、今は違う。
この世界の人たちと本気で向き合ってしまったせいで、僕は彼らを好きになってしまった。それが、こんなにも苦しいことだなんて、思いもしなかった。
今まで僕は、人と表面だけで付き合ってきた。
深入りは面倒だと、心の距離を測って、踏み込む前に線を引いてきた。だから、別れが悲しいなんて感じたことは一度もなかった。
――でも今は、胸の奥が締めつけられるほど寂しい。
この一年で、初めて「失いたくない」と思える日々を過ごした。
陸の笑顔も、霧ヶ峰の皮肉っぽい優しさも、桜井の不器用な頑張りも全部、愛おしかった。
本当なら、このまま高校に行っても、きっとみんなと仲良くしていけたはずだ。
馬鹿みたいに笑い合って、誰かが恋をして、少しずつ大人になっていく。その当たり前の未来を、僕も一緒に歩きたかった。
けれど、それは叶わない願いだ。
この体育館に並ぶ卒業生の中で――この世界を卒業するのは、僕ただひとり。
それは最初からわかっていたことだ。
抗っても、足掻いても、変えられない現実。
だからこそ今は、最後の瞬間まで焼きつけておきたい。
笑い声も、呼びかける声も、拍手の音も。
――全部、僕が確かに「ここに生きていた」という証として。




