第二話 あの日の放課後、罪が始まった
放課後。
帰りのホームルームが終わり、掃除当番の僕は黙々と箒を動かしていた。白いチョークの粉が床に細い川をつくる。
そこで――
「話があるの。掃除が終わったら、体育館裏に来て」
霧ヶ峰さんが正面に現れ、耳打ちだけ残して踵を返す。空気だけが遅れて震えた。
……今の、なんだ。
箒を握ったまま固まる。十五歳男子の脳は都合よくできている。もしかしては、つい浮かぶ。
いや、ない。ないけど、なくはない。……ない。
掃除を終えて廊下へ。西日がガラス越しに差し込み、床に長い影の格子を描く。靴音がやけに響く。
二度、三度と振り返る。風がカーテンを揺らすだけだ。霧ヶ峰が告白ドッキリなんて、しない。たぶん。
体育館裏は、拍子抜けするほど静かだった。
中からはバレーとバスケの足音、笛の短い合図。金属と汗の匂いが夏の空気に薄く混じる。彼女はすぐ見つかった。夕日が縁取り、肩までの黒髪が揺れる。
「来たわね、日向くん」
口角がふっと上がる。冷たいけれど、嘲りではない。
「単刀直入に言うわね」
五十センチの距離を、さらに一歩詰められる。パーソナルスペースを軽く踏み越えて、伸ばせば肩に触れそうな近さ。
心臓が跳ねる。視線の高さが近い。かすかなシャンプーの匂い。
……目が、少し潤んで見える。まさか本当に告白? 困るな。色男は――。
「日向くん。桜井さんがいじめられてるの、気づいてるでしょ?」
「……え?」
構えていた方向が一瞬で崩れた。
「ど、どういうこと?」
「どういうことって、日本語わからないの?」
視線が射抜く。逃げ道はない。
「桜井さんがいじめられてる。あなたは知ってたのかって聞いてるの?」
怒りの熱が、沸点を越える手前で鳴っている。僕はたじろいだ。
「……なんとなく。現場を見たわけじゃないけど」
二歩下がって背を向け、投げやりに返す。
「見てもいないのに、どうしてわかるの?」
氷みたいに冷たい声。
「雰囲気。……たぶん桃井さんたち。人目に触れないように巧妙にやってる。でも、空気を読めば察せられる」
「察せられる? あなた何者? 証拠はあるの」
「知らないよ。実際は勘違いかも。でも、顔や仕草を見れば大抵のことは読める。――それに霧ヶ峰さんだって、知ってるから僕に聞いてるんだろ?」
舌打ちは飲み込んだ。彼女は、何を求めている?
「……話、それだけ?」
俯いた彼女が黙る。影で表情は読めない。もう一歩、こちらへ。顔が上がる。
「……っ」
涙に濡れた瞳。次の瞬間、乾いた音。
右頬がしびれる。ビンタされた。
痛みより、「叩かれた」という事実が頭を白くする。
霧ヶ峰は唇を噛み、潤んだ目を逸らさないまま僕の胸倉を掴んだ。
「なんでよ! なんで、そこまでの洞察力があって、知らん顔できるの? 日向くんならもっと早く、桜井さんを助けられたはずでしょ!」
声は悲痛で、刃物みたいに鋭い。
僕は周囲に人がいないのを確かめ、彼女の肩に軽く手を置く。
「待って。意味がわからない。どうして僕のせいに? ……霧ヶ峰さんだって気づいてたんだろ」
「私は今日、知ったの」
即答。声がわずかに震える。
「朝、階段のところで桃井さん達が桜井さんに絡んでた。空気は最悪。私が声をかけたら、露骨に狼狽して逃げた」
押される。二発目はごめんだ。僕は頷きに徹する。
「……桜井さんに直接、聞いた?」
「聞いた。『大丈夫、なんでもない』って笑った」
「本当にそうなんじゃない? たまたま喧嘩とか」
「日向くんって本当、クズね。面倒から逃げたいだけ」
図星で喉が詰まる。氷の視線が突き刺さる。
「……仮に本当にいじめでも、本人が『大丈夫』って言うなら、関わって欲しくないのかもしれない。下手に首を突っ込んで悪化したら最悪だ。だから、決定的な証拠を掴むまでは様子を見る。僕も意識して見るよ」
もっともらしい言葉を並べると、彼女はまた黙った。頬を張られる覚悟だけはしておく。
「……わかったわ」
小さく頷き、視線は外さない。
「協力してくれるのよね?」
「……もちろん」
反射で答える。心の中では「え、僕も?」が騒ぐ。
「本当に? 約束。――日向くんならすぐ見つけられると思う」
「……買い被りすぎだよ」
「いいえ。あなたは普段、目立たないようにしてる。けど鋭い。だから桜井さんのことも、きっと気づいてるって思った」
期待の眼差しに、罪悪感と、甘い誇らしさが同時に広がる。
「……霧ヶ峰さんも、よく見てるよ。十分、洞察力がある」
「私のは、洞察じゃないわ」
「じゃあ、なに」
「女の勘」
人差し指を立ててウインク。挑発的で、悲しいほど真剣だ。
――逃げ場は、またなくなった。
その後、僕は決定的な場面を一度も押さえられなかった。
……いや、正確には違う。見ないようにしていたのだ。視線を逸らせば、手は汚れないと信じた。
結果、桜井さんは姿を消した。欠席が続き、不登校、そして転校。
それは僕にも霧ヶ峰にも最悪の結末だった。
彼女は自分を責めた。
僕は――そこまで強くは責めなかった。
もしあのとき目撃して、当事者として動いていたら、運命は変わったのか。
いいや、変わらない。正義感ひとつで運命は書き換わらない——ずっとそう思っていた。
だから、僕の責任じゃない。
……そう言い聞かせるたび、胸の底で鈍い鐘が鳴った。




