第二十九話 もし、あの時『ごめん』と言えていたなら
元の世界。同窓会が行われたあの日、ひとつだけ気になったことがあった。
それは“匿名カード”という企画だ。
そのとき、きっと彼女はカードの中身に目を通したはずだ。
――あれが、分岐点だった。
もしあのとき、数名でも桜井に対する罪悪感や謝罪、後悔の言葉が綴られていたなら。
あの犯行は、起こらなかったのかもしれない。
もし詩音に向けた「ごめん」や「後悔」がほんの一行でもあったのなら――。
未来は、まったく違う線路を走っていたのかもしれない。
……まあ、結局のところ、僕が
霧ヶ峰を悪魔にしてしまったという事実に、変わりはないのだけれど。
「おい。和真、起きてるか?」
突然、人の声がした。意識が途切れ、現実に引き戻される。
「……あっ、ごめんなさい」
慌てて僕は返事した。放課後の教室。重なった机の正面には村井先生が座っていた。
今日は二者面談。受験する高校の話から、将来の夢の話題に変わったあたりで、僕の意識は別の場所へ飛んでいた。
「なんだ? なにか考え込んでたみたいだけど、将来の夢に不安でもあるのか?」
村井先生の言葉通り「和真は将来なにになりたい?」という質問で話が止まっていた。
「今は特に。自分がどんな仕事に向いてるか、わからないですし。村井先生はどう思います?」
僕は過去の記憶を思い返して、わざと昔と同じ言い回しをした。このとき村井先生にホテルマンが向いてるんじゃないか、と言われ、僕の将来は決まったんだ。
この世界の僕は、なんて言われるんだろう?
胸の奥で、少し楽しみに似た感情が湧いた。
村井先生は腕を組み、十秒ほど考え込んでから顔を上げ、僕を見つめた。
「知らん」
「えっ?」
ざっくりと切り倒すような口調だった。唖然として、僕は言葉を失う。
「僕、一生無職ですか?」
「いや、そういう意味じゃないさ」
村井先生はオロオロする僕の反応を楽しむように、口元を綻ばせた。
「和真はさ、三年生になってからずいぶん変わったからな。前は消極的だけで、周囲が見える子だと思ってた。でも今はまた違った感じに見える。だから、以前はホテルマンやウェディングプランナーみたいな仕事が向いてると思ってたけど、今は判断できない。いろんな可能性を持っているから、安易なことは言えない」
「僕って、そんなに変わりました?」
霧ヶ峰にも言われたけれど、自分ではあまり実感がなかった。
「変わったよ。俺の中では、やっぱり去年の最後の試合だな。ハーフタイム中、怪我した陸に和真が言ったあの言葉。俺の本心は、陸には将来があるから無理をさせたくないだった。でも、陸の本心は、試合に出たかったんだ。結局、負けはしたけど、みんなの笑顔を見て、俺はホッとした。教師としても、あそこは大事な場面だった。陸をあそこで交代させられていたら、きっとサッカーを辞めてただろうな」
確かに陸はサッカーを辞めてしまう。けれど、村井先生がそれを口にするのには違和感があった。
「そう思う根拠は?」
「根拠なんてねぇよ。陸本人がそう言ったんだよ。先生、あそこで交代させられてたら、俺はサッカー辞めてたかもしれない。和真があの時、自分の心に土足で踏み込んでくれなかったら、試合に出たいって言い出せずに一生後悔してたってな」
「そうですか」
内心、照れくさくなりながら、僕は何気なく相槌を打つ。
「あと桃井か。あいつ、桜井をいじめてたんだってな」
苦笑しながら村井先生は椅子に寄りかかる。思いがけない言葉に、僕は咳き込みそうになった。
「ああ、これは桃井本人から聞いたんだ。二者面談の時に、私は詩音をいじめていたって告白してきた。さすがに驚いたよ。この受験シーズン、誰もが内申書を気にするのに、桃井は自分に不利になることを言ったんだ」
「先生! でも今はもう、いじめなんてありません。一学期の話ですし、今は桃井さんと桜井さん、本当に仲良しですよ!」
慌ててフォローすると、村井先生は微笑んだ。
「わかってるって。別に内申書に書いたりしないよ。ただ、桃井としては一番知られたくない俺に話すことが、ケジメだったんだろう。秘密って言われたから詳しくは言えないけど、桃井は今、将来の夢に向かって本気で勉強してる」
それは見ていてもよくわかる。けれど、桃井さんの将来の夢ってなんだろう?
「でさ、いじめの告白のあと言ったんだ。いじめを止めてくれて、私を剣道部に戻してくれたのは翼と日向くんですって……実際、そうなのか?」
「そんなことないです。霧ヶ峰の力はあったかもしれないけど、僕は何もしてません」
それは本心だった。
桜井を救う手助けはしたが、桃井を救ったのは霧ヶ峰の力だ。
変われたのは、桃井自身の強さがあったから。僕たちはきっかけを与えただけだ。
すると、村井先生はまた笑った。
「霧ヶ峰とまったく同じこと言うんだな、和真も」
「霧ヶ峰さんも知ってるんですか?」
思わず声が上ずった。
「まあな。今と同じこと言ってた。“私は何もしてません。でも、いち早く察して助けようとしたのは日向くんですって。……ありがとな。それと、ごめん。先生、全然気づかなかった。惨劇にならなくて本当に良かった」
「惨劇だなんて、大げさな言い方しますね」
「そ、そうだよな」
腕を組み、浮かない顔をする村井先生。
惨劇という表現を口にする時点で、もしかして――という予感が頭をよぎる。
「霧ヶ峰さんに、なにか言われました?」
「えっ? ああ。まあな」
思ったとおりだ。村井先生は目を瞬きしながら、複雑な面持ちでうなずく。
そして、しばらく考え込んだあと、「和真。ここだけの話だぞ」と切り出した。
「昨日、霧ヶ峰の二者面談だったんだよ。そのとき言われたんだ。もし村井先生の子供がいじめられて自殺したらどうする? そのいじめた子たちは先生の生徒なの。それでも殺したいか? って――急だしな、答えに迷ったよ。この質問には教師として答えるべきか、一人の人間として答えるべきか」
困惑するように、村井先生はうなっていた。
「で、先生はなんて?」
「殺したいって言ったよ」
一人の人間として答えたのか。
「俺にも幼い娘がいるからな。きっと自分にそんなことが降りかかったら、いじめた奴らも、助けてくれなかったクラスメイトや担任の先生も、殺したいほど憎むと思うんだ」
憎悪に似た険しい表情。彼も教師であると同時に親なんだ。そう思うのが、当然なのかもしれない。
「でもさ、結局、俺はいじめた奴らを殺さないと思う。殺したいという衝動は最初だけ。そう――殺しちゃいけないんだ、と踏みとどまるはずだ」
「なんで?」
僕がすぐに聞き返すと、おもむろに村井先生は席を立ち、窓際へ歩いていく。
「和真、これだけは忘れるな。誰かを『殺したい』ほど憎む日が来るかもしれない。だが、その瞬間に手を下してはならない。人を奪うことは、自分の心も奪うことになるんだ」
「どういうことです?」
「人を殺したいと思う気持ちはな、所詮、自分の感情を優先したいだけのエゴだ。誰かのために人を殺す自分に酔ってるだけなんだよ。殺せば、残された人たちの人生まで壊す。親も、恋人も、友達もな。たった一度の衝動で、何十人もの未来を奪うことになる。だから――殺人も、自殺も、絶対にしちゃいけない。覚えておけ、和真。『これは俺の人生だ』なんて言葉は、半分嘘だ。人の人生は、いつだって誰かと繋がってる。お前が生きることで救われる人も、必ずいるんだ。」
「……そうですね」
でも、人は弱い。特に負の感情には。頭ではダメだとわかっていても、膨れ上がった感情を抑えきれず、爆発してしまう。
それでも村井先生の言うことは正しい。
人は人を殺してはいけない。普通は殺さないし、殺せない。単なる「他人を傷つけちゃいけない」という綺麗事ではない。殺人は、犯した自分だけでなく、周囲の大切な人までも深く傷つけてしまう。
桜井も復讐や自殺なんて、考えるべきじゃなかった。お母さんが死んでも、お父さんは生きていたかもしれない。もし、娘まで死んでしまったら、お父さんはどうなっていたか。そうぞうするまでもないだろう。
霧ヶ峰だってそうだ。親や兄妹、愛する人だっていたかもしれない。
そもそも、あの冷静な霧ヶ峰が負の感情に負けて殺人を計画するなんて、おかしいんだ。
めちゃくちゃな同級会になったっていい。霧ヶ峰らしく、白黒はっきりするまで、喧嘩してもいいからとことん話し合うべきだったんだ。
それに、あの同級会で桃井たちが桜井に「あの時は本当にごめん」と謝っていた可能性だってゼロじゃない。
ごめんで済む話じゃない。それでも、その一言は桜井さんにとって救いになったはずだ。
根はすごく優しい子だから、復讐をやめる道だってありえた。
どんな復讐心に燃えていようが、人なんて単純だ。ちょっとしたことで深く傷つくが、同時に救われることもある。
「で、それを聞いた霧ヶ峰さんは、なんて?」
僕は一番気になったことを尋ねた。村井先生は苦笑いしながら頭を掻く。
「五十点だとよ。中学生ならそれで納得するけど、成人した大人が聞いたら説得力に欠けるってさ。でも、『私は中学生だし、今回は百点を差しあげます』だとよ。憎たらしいよな、あいつは」
悪態をつきながらも、村井先生はどこか嬉しそうだった。
なんとも霧ヶ峰らしい。きっと先生の言葉は、彼女の心に少しは届いたのだろう。




