第二十七話 君の娘が連れてきた未来
僕は小さく息を吐き、頷いた。
「要約しようか」
淡々と口を開く。
「もう一つの世界では――桜井さんは不登校になり、転校しても人が怖くなって施設に入る。桃井さんは剣道部に戻れず、未練を残したまま卒業。陸は後半戦に出られず、サッカーを辞める。他のクラスメイトも他人に無関心。受験で頭がいっぱいで、文化祭も運動会もグダグダ。三年B組は何一つ団結できないまま、卒業式を迎える」
沈黙が落ちる。図書館の時計の秒針が、ひとつ、ひとつ、重く響いた。
「そう……。じゃあ、私一人では詩音を助けられなかったのね」
冷たい声だった。けれど、それは怒りよりも、後悔を押し殺した声に聞こえた。
僕は唇を噛みしめる。
「――ああ。そうだよ」
その告白に、霧ヶ峰さんは目を閉じた。
「……桜井さんは、二十二年後に三年B組の同級会を企画する。もちろん、復讐のためだ」
僕の声は、自然と低くなっていた。
「当日のスライドショーには、桜井さんの憎悪が詰め込まれていた。出された飲み物には、睡眠薬が入っていたんだ。逃げ出そうとした者もいたけど、扉は内側から細工されていて、誰も出られなかった。そして……全員、眠っていった」
「その後、どうなったの?」
霧ヶ峰が、息を詰めたように問いかける。展開を急かすような声。でも僕は、あえてゆっくり話した。
「気がついたとき、僕は病院のベッドの上にいた。最初は、服を脱がされ、撮影されて……その写真をネットに流されたんだと思った」
口の中が、ひどく乾いていた。
「それでも構わないと思ったよ。僕のせいで桜井さんの人生を滅茶苦茶にしてしまったんだ。もしそれで、彼女の気が少しでも晴れるなら、それでいいとすら思った」
けれど――その結末は、想像もしなかった方向へ進んでいた。
思い出すたび、全身に寒気が走る。
「……同級会の会場は、爆破された。あのホテルの一室ごと」
「――っ」
霧ヶ峰が小さく息を呑む。
「僕以外のクラスメイト全員と、担任の村井先生。十九人が死んだ。生き残ったのは僕だけだった」
言葉にした瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
「警察はすぐに動いたよ。だけど、結果的に――桜井詩音が犯人とされた」
「詩音が……?」
彼女の眉がわずかに動く。
「うん。動機もあったし、睡眠薬を買っていた記録もあった。スライドの映像をホテル側に依頼していたのも彼女だ。……でも、おかしいんだ。爆弾の入手経路だけは、最後までわからなかった。結局、警察は桜井詩音の単独犯行として捜査を終えた。でも、世間はそう思わなかった。唯一生き残った僕が、真犯人なんじゃないか――って」
霧ヶ峰の表情が、痛みに似た色に変わる。
「仕事も、家も、全部失った。ネットでは“完全犯罪の生き残り”なんて言葉が飛び交って、名前も顔も晒された。……それでも、僕は思ったんだ。せめて真実を知りたいって」
喉が焼けるように痛い。それでも、最後まで言い切らなきゃならなかった。
「……途方に暮れていたときだ。息子の陽翔が、ある日、一人の女の子を連れてきた。その子の名前は――霧ヶ峰美羽」
名前を出した瞬間、霧ヶ峰の瞳が大きく見開かれた。
「そう。君の娘だよ」
僕は静かに頷く。
「僕の息子と同じ十五歳だった。……美羽ちゃんは言ってたんだ。『お母さんから授かった力がある』って。その力があれば、卒業アルバムにある写真の元へ――三回だけ、やり直す機会を得られるって」
「……私が、授けたの? 娘に?」
霧ヶ峰は、独り言みたいに呟いた。声には、困惑と戸惑いが細く混ざっている。
「うん。美羽ちゃんはそう言ってた」
「今、日向くんは何歳なの?」
「三十七」
「……そっか。じゃあ、日向くんも立派なおじさんね。ああ、なら私も、堂々たるおばさんか」
「君の娘は言ってた。『自分が生まれてこない運命のほうが、母は幸せだったはず』って。……君は別の誰かと結婚して、早くに離婚する未来らしい」
「日向くん。あなた、さらっと核爆弾を投下するタイプ?」
「ご、ごめん」
「いいわ。そこまで言われたら、続きが気になるもの」
視線を逸らさない彼女に押され、僕は言葉を継いだ。
「だから美羽ちゃんは、未来を変えたいって言う。――僕と霧ヶ峰さんが結婚する未来に書き換えれば、母はきっと幸せになれるって」
「……お節介な娘ね」
冷ややかな言い方のくせに、霧ヶ峰さんの口元は、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいた。
「でも、思うんだ」
胸の奥にずっと置きっぱなしにしていた言葉を、そっと机の上へ置くみたいに出した。
「もし、霧ヶ峰さん自身が、自分の人生を本気で後悔してたなら。きっと、とっくにその力を自分で使ってたはずだよ。時間を巻き戻して、別の道を選んでたはずだ」
彼女は黙っていた。視線は落ちたまま、長い睫毛がわずかに震える。
「でも、そうしなかった。結果的に、その力を娘さんに託した――それってさ」
言い切る前に、喉がきゅっと狭くなる。言葉を押し出すみたいに、息を吐いた。
「美羽ちゃんが生まれたこの人生は、後悔じゃない。ちゃんと幸せだったって、そういう答えなんだと、僕は思う」
微かな音で、霧ヶ峰の唇がほどける。けれど、声は出ない。代わりに、机の角をつまむ指先が強くなった。
「僕もね」
自分の胸に手を置いた。鼓動が、掌に当たって跳ね返ってくる。
「妻と結婚して、陽翔が生まれて……それからすぐ、妻は交通事故で死んだ。世界の色が、一晩で全部抜け落ちたみたいだった。神さまなんて、いるなら喧嘩売ってやるって本気で思った」
あの夜の救急外来の匂い。白い天井。握れなかった手。
言葉にすると、こぼれ落ちていくものが多すぎて、目の奥が熱くなる。
「それでも――両親が、職場の人たち、みんなが支えてくれた。夜、眠れない時は陽翔の寝息が、暗闇の中の灯みたいに僕を引き戻してくれた。あいつは、思いやりのある、いい子に育ってくれたんだ」
視界がにじむ。情けないから、瞬きをして誤魔化す。
「だから、不幸だけで塗りつぶされた人生だって思っていない。悲しみは消えないけど、それでも確かに、幸せはあった――。もし時間を巻き戻せるとしても、多分、僕は同じ道を選ぶ」
言い終えて、静けさが降りる。
霧ヶ峰がそっと顔を上げた。うるみかけた瞳が、まっすぐこっちを刺してくる。
「……ずるいわよ、日向くん」
霧ヶ峰さんは唇を噛み、僕から目を逸らす。
「そんなこと言われたら私、あなたに想いを伝えられないじゃない」
そう言って霧ヶ峰は立ち上がり、カーテンの隙間から冬の空を見上げていた。




