第二十六話 もうひとつの世界の話をしよう
「霧ヶ峰さん。まず、今から話すことは――ぼくたちの世界がもうひとつあると想定して考えてほしい」
僕は前置きをして、まっすぐ彼女を見た。
「話の中には、気分を悪くする内容もあるかもしれない。……無理だと思ったら、遠慮なく止めていいから」
空気の温度がわずかに変わる。霧ヶ峰は、意味を掴みかねた様子で小さく瞬きをしたが、それでも迷わず頷いた。
胸の奥が焼けるように痛む。けれど、もう後戻りはしない。
「最初、霧ヶ峰さんが僕に相談してきたよね。桜井さんのいじめのこと、知ってるかって」
「ええ、よく覚えているわ。あの時から日向くん、おかしくなったものね」
おかしくなった、なんて言わないでほしいな。
「その世界での僕は君の相談から逃げた。面倒ごとには関わりたくないって言って、聞かなかったふりをしたんだ。想像してみてほしい。もし、桜井さんが桃井さんたちにいじめられていた時、誰も助けなかったら」
僕は一呼吸置いて、言葉を続けた。
「裸にされた写真が本当にネットに流されたら……桜井さんは、どうなっていただろう」
淡々とした口調のまま、静かに問いを投げる。
霧ヶ峰はしばらく沈黙し、それから小さく息を呑んだ。
「どう……なっていたかしらね。たぶん、不登校になってたんじゃない?」
唇を噛みながら、彼女は答える。
「でも、自分の裸がネットに出回るって、そんなの……詩音、学校どころか、生きていくことすら怖くなってたかもしれないわ」
その声には、どこか震えが混じっていた。
あくまで仮定の話なのに、まるで現実を突きつけられたような青ざめ方をしている。
僕は、次の一手を放つ。
「じゃあ、不登校になったとして。自分の裸が世界に晒されて、転校したとしても……また元の生活に戻れると思う?」
霧ヶ峰はゆっくり首を振る。
「難しいと思う。たぶん、怖くて外に出られなくなる。……でも」
ふと、彼女の瞳に光が戻る。
「詩音なら、もしかしたら乗り越えられたかも」
「根拠は?」
「直感よ」
彼女は淡く笑った。
「詩音って、見た目よりずっと強い子だから。きっと、絶望の中でも踏ん張ってたと思う」
その一言に、僕の胸の奥がざわついた。
彼女が言っているのは、僕が知っている、あの詩音とは違う。けれど、それがたまらなく嬉しかった。
霧ヶ峰は、机の上で指を組みながら小さく呟く。
「……ねえ、日向くん。なんでそんな話、急にするの?」
その声は静かだった。けれど、その奥には鋭い洞察の刃が潜んでいた。
僕の中で、迷いが音を立てて崩れていく。
――もう、隠せない。
この話を物語として語ることに、どれだけの意味があるのかはわからない。
でも、黙っていることの方が罪深いと、今は思えた。
「桜井さんの強さを引き出したのは、霧ヶ峰さんの助けがあったからだよ」
僕は静かに言葉を落とした。
「誰かが自分を見ていてくれる。信じてくれる人がいる。……その支えがあったから、桜井さんは、自分の中の本当の強さを見つけられたんだと思う」
実際、それは事実だ。
僕の知る前の世界では、桜井詩音は元の生活に戻ることができなかった。
霧ヶ峰は眉をひそめる。
「じゃあ、もし……誰も助けてくれなかったら?」
「……うん。そのときは、桜井さんは学校に戻れなかったと思う」
一拍おいて、僕は続ける。
「いや、思うじゃない。もう一つの世界では、桜井さんは不登校のまま、転校しても戻ってこられなかった。人が怖くなって……やがて、施設に入ったんだ」
言葉を発した瞬間、霧ヶ峰の瞳が揺れた。
彼女は笑わない。けれど、何かを見抜こうとするように僕を凝視してくる。
「……まるで、実際に見てきたみたいな言い方ね」
低い声。どこか張りつめた糸のように、静かで、それでいて鋭い。
「見てきたんだよ」
僕は視線を逸らさずに言い切る。霧ヶ峰はその言葉を受けて、少しだけ息を呑んだ。
机の上で指先が小さく震えるのを、彼女自身が意識しているのかいないのか。
「……ねえ、日向くん。今の話、冗談なら笑ってあげるわ」
口元にかすかな笑みを浮かべながらも、その瞳は冗談の色をしていなかった。
「でも、もし本気で言ってるなら――続きを聞かせて」
その声音は、挑むようでいて、どこか怯えていた。
理性と感情の狭間で、彼女は確かに信じ始めていたのだ。
「悲劇を生んだのは、桜井さんだけじゃない」
僕は静かに言葉を選びながら続けた。
「桃井さんも、あのときいじめをやめていなかったら――剣道部に戻ることはできなかった。陸も同じだ。サッカーの県大会決勝、足の怪我で後半戦に出ていなかったら、未練を残したままサッカーを辞めてしまう」
「久美のことはわかるけど……一ノ瀬くん? あの人、サッカー続けてたんじゃない? 高校からスカウトまで来てたでしょ」
霧ヶ峰は、眉をひそめて僕を見つめた。
「いや、陸はサッカーをやめる」
断言すると、彼女の目が揺れた。
「それほどまでに、あの試合は彼にとって特別だった。第三者から見たら理解できないかもしれないけど……あの瞬間に全てを賭けてたんだ。もし出られなかったら、その未練が一生、彼を縛ってしまう」
言いながら、僕の胸の奥にも鈍い痛みが走る。
あの時、陸の目に宿っていた悔しさを、僕は今も忘れられない。
「そして、桜井さんと付き合うこともなかったはずだ。それに、変わったのは彼らだけじゃない。霧ヶ峰さん、陸、桃井さんたちが仲良くなったおかげで、クラスの空気も変わった。文化祭も、運動会も、クラス全員で協力して、ようやくひとつの形になったんだ」
「もう一つの世界では、違うの?」
霧ヶ峰が、わずかに身を乗り出す。その瞳の奥に、好奇心と恐れが同居していた。
――変化だ。
最初はただの話の続きとして聞いていた彼女が、今はその一言一言を、まるで現実として受け止め始めている。




