第二十四話 満面の笑顔に、すべての答えがあった
シャッター音と同時に、世界が歪んだ。
眩い白が視界を洗い、鼓膜を針でつつくような轟音がはじける。
「……え?」
声にしようとした言葉は空気に溶け、仲間たちの輪郭が薄い霞になってほどけていく。足裏の芝の弾力も、汗に混じる夏の匂いも、遠ざかって――。
気づけば、そこは見慣れたリビングだった。
また、戻ってきてしまった。
「……和真さん」
顔を上げると、美羽と陽翔がいた。美羽はぱちぱち瞬きして、胸に手を当ててほっと息をつく。
「よかった。目、覚めた……」
「えっ?」
「父さん、三分くらい眠ってたんだよ。さっきより遅かったから、ちょっと焦った」
三分。あの数週間が、ここではそれだけ。喉の奥で乾いた笑いが転がる。
「サッカーの試合、どうだったの?」
陽翔にたずねられて、言葉が詰まった。
「……悪い。未来は変えられなかった。もっと早く、陸がケガする記憶を思い出していれば、止められたかもしれない。そうしたら、勝てたかも、なのに」
言いながら、胸の奥がきゅっと痛む。やり直しの機会をもらって、それでも届かなかった悔しさが、遅れてやってくる。
「そう……なんだ」
その時、美羽がアルバムのページに小首を傾げた。つん、と指先で写真の縁を示し、上目づかいでこちらを見る。
「でも、これ――優勝してない顔じゃないですよ?」
「え?」
覗き込んで、思わず息を呑む。
最初に見た写真では、サッカー部の面々は固い真顔で並んでいた。陸なんて、完全に目が死んでいた。
けれど今の写真は違う。みんなが、悔いのない笑顔で肩を組んでいる。汗が光って、歯を見せて、やり切った、という顔。
しかも、前の写真には写っていなかった霧ヶ峰や桜井、桃井、沢尻、遠野まで、ちゃっかりフレームの端に入り込んで、手を振ったりピースしたりしている。
なにより、清々しいのは陸だ。
俺の肩に腕を回し、思い切り口を開けて笑いながらピースサイン。写真なのに、息の弾みまで伝わってくるような顔だった。
「きっと、勝つことだけが正解じゃなかったんですよ」
美羽はそっと微笑む。目尻がやわらかくほどける。
「一ノ瀬さんの後悔は、負けたことじゃなくて、最後までピッチに立てなかったこと。そこをやり直したから、写真が変わった。――そういうこと、だと思います」
「……ああ。過去に戻らなかったら、気づけなかった」
なんで陸がスカウトを断って、サッカーから離れたのか。あの時、ピッチに立てなかった悔いが、ずっと棘みたいに刺さっていたのだと、今なら分かる。
「これで、一ノ瀬さんの未来も変わるかもしれませんね」
「もしかして、サッカー選手になってたりして」
「そうですね、なくはないです」
美羽は嬉しそうに目を細め、テーブルに頬杖をつく。陽翔は「それ、超いいじゃん」と無邪気に笑った。
プロかどうかは分からない。それでも、あの笑顔のまま、陸が自分の未来を選べるなら、それでいい。
「……次の写真で、最後だな」
意を決してアルバムに目を向けたその瞬間――
「待って!」
鋭く響いた声に、俺は思わず手を止める。美羽が身を乗り出していた。
「あっ、ごめんなさい。でも、その最後の写真、私が選んでもいいですか?」
その瞳は、どこか必死で。懇願というより、運命の分岐を前にしたような、強い決意が宿っていた。
「ああ。構わないよ」
俺は静かに頷いた。
そもそも、この力は美羽のものだ。俺は二度、やり直すチャンスをもらった。なら最後の一回くらい、彼女に託してもいい。
美羽は息を整え、アルバムを慎重にめくっていく。ページをめくる音が、部屋の静けさに溶けていった。
そして、その指が、ぴたりと止まる。
「……これ、です」
指差された写真を見た瞬間、息をのんだ。そこに映っていたのは――霧ヶ峰だった。
卒業式の日だろう。手には卒業証書。カメラに向けた表情は凛として美しい。けれど、その瞳の奥に、言葉にできない影が残っていた。
未練。後悔。伝えきれなかった想い――確かに、そこにあった。
「お母さん……卒業式なのに、ちょっと寂しそうな顔してる」
美羽がぽつりと呟く。その声に、ほんの少し震えが混じっていた。
「だから、この顔を――笑顔にしてください。お願いします」
「頼み方、雑だね」
思わず苦笑する俺に、美羽はぷくっと頬を膨らませる。
「誰も結婚しろなんて言ってませんよ。笑顔にしろって言ってるんです」
腕を組んでそっぽを向く仕草が、どこか既視感を呼ぶ。
ああ、やっぱり――この雑な感じ、言い方のキツさ、でもどこか優しいところ。
間違いなく、霧ヶ峰の娘だ。
「父さん、ガンバ」
陽翔がぽん、と僕の肩を叩いた。
ああ、そうだよな。もう彼は第三者なんだ。見送るしかできない側。
ありがとう、妻よ。――息子はちゃんと優しく、まっすぐに育ちました。
「わかった。じゃあ、最後のタイムスリップ――君のお母さんを、笑顔にしてくるよ」
「いってらっしゃい、和真さん」
二人が写真を指差す――その瞬間、光が包む。
新しい最後の一枚を撮るために、最後のタイムスリップだ。
第三章 終




