第二十三話 称賛の拍手
結果、1対1まで追い詰めた僕たちだったが――あれが全員の限界だったのだろう。
すぐに1点を取り返され、試合は1対2で終了した。
試合終了のホイッスルが響いた瞬間、全員の足が止まる。
そのあと、観客席から惜しみない拍手と歓声が降り注いだ。
敗北の悔しさと同時に、それは確かに「称賛」だった。
でも、全国には行けなかった。
――未来は、変えられなかったのだ。
「和真!」
背後から陸の声がした。振り返ると、彼が駆け寄ってくる。
「陸。足、大丈夫?」
「ああ、なんとか……な」
返ってきた声は少し掠れていた。重い空気が流れる。
僕は息を吐き、何か言おうとした瞬間――陸が突然、僕に抱きついてきた。
「り、陸? どうしたんだよ!」
戸惑う僕の胸に、陸の手が強くしがみつく。その体が小刻みに震えている。
泣いているのだと、すぐに分かった。
「ありがとう! 試合には負けたけど……俺、悔いはない。すごく、楽しかったんだ」
途切れ途切れの声。
涙混じりの笑顔は、少年のようにまっすぐだった。
「……そうだね。でも、ごめん。僕が最後、防げていたら」
「違う!」
陸は顔を上げ、力強く言い切る。
「勝ち負けなんか、どうでもよかった。中学最後の試合、和真やみんなと最後まで戦えた。それだけで……俺は幸せ者だよ。もう、思い残すことはない」
その言葉に、胸の奥でなにかが溶けた。
行き止まりだった場所に、確かに灯がともった気がした。
僕は「思い残すことはない」と言った陸の笑顔を、きっと一生忘れないだろう。
急に、全身の力が抜けた。膝ががくりと落ち、視界が揺れる。
「和真? 大丈夫か!」
すぐに陸が僕の体を支える。
「……ごめん。さすがに今日の試合は、しんどかったみたいだ」
「そりゃそうだろ。あんだけ走ったら、普通は心臓止まってるぜ」
「大丈夫。魂が動いてたから」
そう言って笑うと、陸は呆れたようにため息をつき、それでもやっぱり笑っていた。
その笑顔は、勝利よりも眩しく、何よりも強かった。
「一ノ瀬くん!」
突如、僕たちの方に桜井さんが駆け寄ってくるのが見えた。
ユニフォーム姿の陸は、驚いたように目を瞬かせ、棒立ちになる。
「さ、桜井……?」
不意を突かれた陸の声は、まるで中学生みたいに上ずっていた。
桜井は息を切らしながら、今にも泣き出しそうな顔で言葉を絞り出す――。
「ごめん、桜井……試合、勝てなかった」
「そんなこと、どうでもいい!」
「えっ? ど、どうでもいいって……」
陸は思わず固まる。
桜井は、もう試合のことなんて頭になくて、ただ陸の足元を見つめていた。
「足……痛いんでしょ? まだ無理してるんじゃない?」
「いや、大したことないよ」
「前半戦のとき、痛めてたって聞いたよ。なんで……交代しなかったの?」
「そりゃ、最後の試合だったし。後悔したくなかったから」
「……バカじゃないの?」
桜井さんの声が震えた。ぽろぽろと涙が溢れながらも、睫毛の奥に怒りの色が滲む。
「足の怪我が悪化したら……どうするの。一ノ瀬くんがどんなに強くても、家族が……心配するでしょ」
「いや、俺……母さんいないし。父さんも、たぶんそんなに心配しないと思う」
陸はしんみりと肩を落とした。
その言葉を聞いた瞬間、桜井さんの目が吊り上がる。
次の瞬間、乾いた音が響いた。
パシンッ。
陸の頬に、桜井の小さな手が当たっていた。
「……そんなわけ、ないでしょ!」
声は震えていたけれど、真っ直ぐだった。
「一ノ瀬くんのお父さんには、もう一ノ瀬くんしかいないんだよ。そんなたった一人の家族が怪我したら……お父さん、どんな気持ちになると思うの……」
最後の方は涙で言葉にならず、桜井は両手で顔を覆って俯いた。
「……ごめん。陸に後半、出るように背中を押したの……僕なんだ」
僕が口を開いた瞬間、空気が凍った。
――しまった。フォローしたつもりが、完全に火に油だった。
桜井さんは勢いよく顔を上げ、真っ赤な目で僕を睨みつける。
「なにそれ……! 普通、親友なら止めるでしょ!」
怒鳴っているのに、声は涙まじりだった。その両手が小刻みに震えていて、僕は抵抗できず、されるがままだった。
桜井さんの目から大粒の涙が頬をつたう。
その姿を見た瞬間、僕は何も言えなくなった。
「詩音。気持ちはわかるけど、落ち着きなさい」
僕の横に、霧ヶ峰が立っていた。その手は桜井さんの腕を、しっかりと掴んでいる。
「……翼ちゃん」
「大丈夫。日向くんのことは、あとで私がきっちり締めておくから」
……いや、結局締められるんかい!
心の中でツッコミを入れる。
だが、霧ヶ峰が割って入ったことで、桜井の興奮はみるみるうちに静まっていった。
呼吸を整えながら、震える声で呟く。
「私……なんてことしちゃったんだろ。二人とも、ごめん。一ノ瀬くん、顔……大丈夫?」
我に返った途端、桜井は後悔に押し潰されたように落ち込む。
でも、それだけ真剣だったということだ。
「ううん。ありがとう、桜井。俺……すごく嬉しいよ」
項垂れる桜井の肩に手を置き、陸は穏やかに微笑んだ。
その顔は、試合後とは思えないほど晴れやかで――桜井はハッとしたように顔を上げ、まっすぐ陸を見つめ返した。
……なんだろう。
二人の間に流れる空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
「俺さ。前にも言ったけど、桜井が思うような完璧な男じゃないんだ。学校では爽やかぶって格好つけてるけど、本当は泣き虫で、打たれ弱くて、寂しがり屋で……今日だって、みんなが助けてくれなかったら、最後まで立っていられなかった」
ぶっきらぼうな言い方のくせに、陸は真正面から自分の弱さを差し出した。
まっすぐで、不器用で、ずるいほど誠実だ。
「うん。知ってるよ」
桜井さんは、そっと目尻をゆるめる。
でも言葉は容赦なくスパッといく。
「私、別に一ノ瀬くんのこと、格好いいとか強いなんて思ってないから大丈夫。案外、ナルシストなんだね?」
「えっ、そ、そうなの……?」
目を丸くする陸。桜井はふふっと小さく笑い、胸の前で指を重ねた。
頬はほんのりと桜色に染まっていて、まるで夕暮れの光を映したみたいだった。
「……私が、一ノ瀬くんを好きなのは、優しいからだよ」
そう言いながら、桜井は小さく息を吸い込み、勇気を振り絞るように続けた。
「夜遅くまで、後輩に付きっきりで練習つき合ってたでしょ。全然うまくいかなくても、何回も、何回も……。あれ見て、ホッとしたの。この人、なんでもそつなく見えるけど、本当は影でずっと努力してるんだなって」
言葉を紡ぐたび、桜井の瞳は陸を真っ直ぐ見つめていた。
その目には、優しさと、ほんの少しの涙が滲んでいる。
「それからね、自然と目で追うようになって……一ノ瀬くんのいいところも、嫌なところも、たくさん見えたよ。うぬぼれ屋なところも、ちょっと雑なところも――ぜーんぶ」
そう言って、桜井は恥ずかしそうに両頬を押さえ、下を向く。
でも、次に顔を上げたときの笑顔は、どこまでもまっすぐだった。
「それでも好きだって分かったの。だから、振られるの分かってたけど……自分に嘘つきたくなくて、告白したの。だからね、一ノ瀬くん。私を振ったこと、もう悩まないで?」
最後の言葉を言い終えると、桜井は胸の前で小さく両手を合わせ、ふわっと微笑んだ。
その笑顔は、涙で滲んでいるのに、どこまでも澄んでいた。
陸は言葉を飲み込み、しばらく黙った。
やがて照れたように後頭部をかき、深く息を吸う。
「……そっか。じゃあ――」
陸は一歩、彼女に近づく。そして、まっすぐに頭を下げた。
「頼りない男ですが、よろしくお願いします」
差し出された掌。
えっ。それって、まさか……。
陸の言葉の意味を理解した僕は面食らって、一歩後ずさる。霧ヶ峰も同じで、瞬きを繰り返しながら口をぽかんと開けていた。
けれど一番驚いたのは、もちろん桜井本人だった。
棒立ちのまま、キョトンと鳩のような顔で固まっている。
「ほら、お前らー! 記念撮影するぞー!」
遠くから、村井先生の大声が響く。
「よし、行こう!」
陸は固まっている桜井の手を、やさしく握って引っ張った。
その瞬間、桜井はハッと我に返り、頬を真っ赤に染めて――満面の笑みで頷く。
二人はそのまま駆けていった。
「……青春ね」
腕を組んで、霧ヶ峰は二人の背中を眺めながら、どこか楽しげに微笑んだ。
「試合、残念だったわね。でも、良かった。日向くんらしかったわ」
「うん。ありがと。出来れば勝ちたかったけどね」
でも、不思議と後悔はなかった。
負けたのに、胸の奥があたたかくて。あれが、本気で生きたってことなんだろう。
「詩音、良かったわね。……私も頑張ろうかしら」
「えっ? 霧ヶ峰さん、好きな人いるんだ」
意外だった。まあ、霧ヶ峰さんも一応、思春期の女の子だしな。
「僕で良ければ、協力するよ」
優しく言うと、霧ヶ峰は一瞬目を細め、次の瞬間、僕の肩を殴った。
「痛っ! な、なに? 僕、なんかマズいこと言った?」
「別に。殴ったのは、さっき殴りそこねた詩音の代わりよ」
……それ、今ですか? 出来れば、もっと穏やかなタイミングでお願いしたい。
霧ヶ峰は僕を一瞥して、ふんと鼻を鳴らすと、皆のもとへ駆け出していった。
「あっ、待ってよ!」
僕も慌ててその後を追う。
疲れ切った体で、足取りはふらふらだ。
サッカー部全員と、応援に来た生徒たちとで記念写真を撮った。
笑顔が並ぶ中、胸の奥では――これでよかったのか、という小さな不安がまだ燻っていた。
けれど、そんなのも悪くないと思えた。
――カシャ。




