第二十話 バトンを繋ぐ瞬間
「詩音。おめでとう!」
桜井の周りに人がいなくなった頃を見計らって、霧ヶ峰が背後から抱きついた。
「きゃっ……あっ、翼ちゃん。ありがとう」
驚きながらも、相手が霧ヶ峰だとわかると、桜井は安心したように微笑む。
僕と陸も後ろに続く。二人の目が合うのは早かった。
「桜井……」
陸は珍しく緊張した声で名を呼び、そこで一度、言葉を切った。
桜井は何も言わず、まっすぐに彼を見つめ返している。
「すごく格好よかった。……桜井が強い理由、なんとなくわかった気がする」
「ありがとう」
「来週、俺も決勝なんだ。相手は二年続けて勝ててない強豪でさ。正直、自信がなかった。でも、桜井の試合を見て、勇気をもらった」
陸は真っ直ぐな目のまま、ゆっくりと頭を下げる。
「だから、応援に来てほしい」
そう言って差し出された手に、思わず僕の胸がくすぐったくなった。
まるで「好きです」と言っているみたいだ。霧ヶ峰も同じだったのか、ぱちぱちと瞬きをしている。
「うん。わかった。応援に行くね」
桜井は迷いなく、陸の手を握った。
「詩音!」
せっかくの空気を切り裂くように、桃井がずかずかと駆け寄ってきた。
その背後に、沢尻や遠野の姿はない。
霧ヶ峰はあからさまに「あーあ」という顔をしたが、今回は黙って道を空ける。
陸と桜井は慌てて手を離した。
桃井はそんな様子に気づかず、桜井の肩を両手で掴む。
「詩音。今日は完敗だった。でも、これで終わりじゃない。高校でも剣道部に入りなさい。この借りは絶対、返すわ!」
真剣な顔の奥に、どこか嬉しさが混じっている。
よく見ると、瞼には泣いた跡が残っていた。
「もちろん。でも、高校でも負けないよ」
珍しく強気な桜井に、桃井は微笑み、力強く頷いた。
「ありがと。じゃ、また後でね」
言いたいことを伝え終えると、桃井は背を向けて去っていった。
嵐のあとの静けさ。
霧ヶ峰はその背中を見送り、すぐ桜井に向き直る。
「詩音。今日は本当におめでとう。――ちょっと久美にも一言、言ってくるわ。久美も、大事な友達だから」
照れくさそうに言う霧ヶ峰に、桜井は少し驚いた顔をしたあと、「うん、わかった」と頷いた。
「ほら、日向くんも行くわよ」
霧ヶ峰に腕を引かれ、僕もなぜか巻き添えにされる。
「え、僕も?」と言いかけたが、陸と桜井の顔を見て、すぐに口をつぐんだ。
――助け舟だな。今この場に残される方が、よほど気まずい。
二人っきりにしてやるのが、たぶん正解だ。
後を追うと、桃井は体育館を出て、人通りのない場所でしゃがみ込んでいた。
ここはそっとしておいた方がいいだろう――そう思ったのもつかの間、霧ヶ峰は迷いなく桃井のもとへ歩いていった。
「本当に久美らしい試合だったわね」
いきなりの声に、桃井はビクッと肩を震わせて振り返る。相手が霧ヶ峰だとわかると、安堵したようにため息を漏らした。
「なんだ、翼か。なによ、バカにしに来たわけ?」
泣いていたのか、桃井は服の裾で目元を拭う。すると、霧ヶ峰は何の断りもなく、隣に腰を下ろした。
「その逆よ。あんた、大したもんだわ。戻ってきて一ヶ月足らずで、決勝まで行くなんて。……まあ、戦い方から見て、才能とかセンスがあるとは言えないけどね」
そう言いながら、霧ヶ峰は桃井の肩にそっと手を置いた。
「でも、それだけ努力したってことよ。誇りにしていいと思うわ」
その一言が引き金になったのか、桃井は堪えていた感情を抑えきれず、声を上げて泣き出した。
霧ヶ峰は黙ってその頭を抱き寄せ、静かに胸を貸す。
しばらくして落ち着くと、桃井は背後にいた僕に気づき、慌てて霧ヶ峰から離れた。
「なんだ……日向くんもいたの」
俯きながら唇を噛み、また裾で涙を拭う。
その服、もうびしょびしょじゃないか。そう心の中で突っ込みながら、僕は微笑んだ。
「悪いね。でも、僕からも一言だけ。霧ヶ峰さんの言う通り、いい試合だったよ。桃井さんは、クールに構えるより、我武者羅に戦ってる方がずっと輝いてた」
「うっ、うるさいわよ」
桃井は目を泳がせ、照れたように頭をかいた。
一瞬の沈黙のあと、彼女は二、三歩ほど下がり、僕たちに向かって深々と頭を下げた。
「翼と日向くん。あの時、私の世界は真っ暗で、どこにも出口がなかった。でも、二人が差し出してくれた手が、暗闇の先に道を作ってくれた。もう一度、前を向けるようになったのは――あなたたちのおかげ。ありがとう!」
「それは違うよ、久美」
霧ヶ峰は近づき、頭を下げる桃井の顔をそっと上げさせた。
「私たちは、きっかけを与えただけ。その光景をつかんだのは、久美自身の力だよ。だからね、お願い。もう、ありがとうなんて他人行儀なこと言わないで。私たちはもう、友達なんだから」
その言葉に、桃井は泣き出しそうな顔を必死にこらえ、唇を噛みしめて頷いた。
僕はその光景をしばらく眺めてから、静かにその場を離れた。
霧ヶ峰の言う通りだ。
僕たちは、ただきっかけを作っただけ。そこから這い上がったのは、紛れもなく桃井自身の力だ。
本当に二人とも、いい試合だった。
僕も陸と同じで、心の奥が熱くなるのを感じていた。
次は僕たちの番だ。
サッカー部の決勝。二年連続で敗れた強豪を倒し、全国大会の切符をつかむために――負けるわけにはいかない。




