第一話 夏の同窓会、止まった時間の中で
同級会当日。七月十八日、十七時半。
十階建てのホテルは周囲の高層に呑まれて小さく見えた。自動ドアの前で一呼吸、ネクタイを整える。胸の鼓動がうるさい。
幹事:桜井詩音。
便箋の末尾で止まったあの文字が、まだ頭の隅で点滅している。
「……行くか」
足が重くなる瞬間――
「おい、和真」
背後からよく通る声。振り向くと、一ノ瀬陸がいた。
百八十はある長身に、ほどよく着慣れたスーツ。健康的な笑顔が先に来て、切れ長の目があとから冗談めかして細くなる――昔のままだ。
「……陸か」
「お前、変わんねえな。若いまんま」
近づいた瞬間、肩をぽんと叩かれる。手のひらの重さに、記憶のほこりが一気に払われる。
中学の頃、陸は前を走るやつで、俺は半歩後ろを並走する役だった。
親友だった――と、胸を張って言いたい。けれど実際は、高校に上がってから一度も連絡を取らなかった。
それで親友って言えるのか? ……まあ、今日ぐらいは言わせてくれ。
「久しぶりだね」
「おう。こっちは相変わらず元気だけはある」
陸の笑いにつられて、頬がゆるむ。
時間は飛んだのに、会話の呼吸だけは、置いていかれていなかった。
肩を叩かれ、肺まで揺れる。強すぎるのも相変わらずだ。
「開始十八時。先に受付、な」
夏の陽が背を押す。俺たちは並んでドアをくぐった。
受付は既に賑やかで、丸テーブルが幾つも並び、瓶ビールとソフトドリンクが汗をかいている。二十二年分の時間は、顔を見ても思い出せない人たちを量産していた。とくに女子は、記憶との照合に時間がかかる。
「日向くん、ひさしぶり!」
名乗らず撃ってくる高火力に「久しぶり」とだけ返すのがやっとだ。名前当てクイズは、昔から苦手。戻ってきた陸が肩をすくめる。
「女子、全員クイズ。毎回びびる」
「それは言えてる」
少しだけ肩の力が抜けた、そのとき。
「和真、結婚は?」
「した。でも――七年前に」
「……そうか」
陸の瞳に、一瞬だけ影。すぐに晴れたふりをして、俺も軽く笑う。
「息子がいる。十五。最近は一緒にゲームもしてくれる」
「いいな。俺は独身。若い頃は気楽だと思ってたけど、……まあ、たまに静かすぎる」
言い終えたあと、陸は何か言い足しかけて飲み込んだ。
喉仏が小さく上下する。――言わない選択をする癖。昔からだったか?
「日向くんに一ノ瀬くん、ね」
横からすっと声。
振り向くと、空気の温度が半度下がる感じの美人が立っていた。白い肌。切れ長の目。薄紫のノースリーブにハイウエストのタイトスカート。装飾は華奢な腕時計だけ。肩で切りそろえた黒髪を耳へ払う仕草に、無駄がない。
陸が小声で「誰だ、この美人?」と囁く。俺は脳内検索を全開にして。
「……こんな強面、いたっけ」
と、口に出ていた。
彼女はわずかに眉を寄せ、射抜くような視線で言う。
「美人は受け取るわ。強面は減点。――霧ヶ峰翼。思い出した?」
名前が落ちた瞬間、胸の奥で古い拍が跳ねた。
霧ヶ峰。そうだ。
曲がったものを嫌い、白黒つかないまま放っておけない性格。言うべきを言うから敵も作る。けれど、教室でいちばん“傍観者にならなかったのは、間違いなく彼女だ。
陸が笑う。
「昔も綺麗だったが、今はさらに磨きがかかったな」
「ありがとう、一ノ瀬くん。そっちも色男。口も達者になったのね。いろいろと経験値を積んだでしょう?」
大人の距離感で軽口が交わされる。俺だけ時差ボケみたいに、二十二年を飛び越え損ねた感覚になる。
「ねえ、日向くん」
霧ヶ峰が半歩、間合いを詰める。心臓が一拍、はねた。
気づけば陸の姿がない。
「……陸は?」
「お手洗い。すぐ戻るわ」
視線がつま先から頭のてっぺんまでをすっとなぞる。彼女は小さく息を吸って、ほんの少しだけ口角を上げ、
「やっぱり、変わらない」
と笑った。が、その笑みはどこか皮肉が混じっているように見えた。
「どういう意味?」
いつもなら笑って流すところが、今日は引っかかった。
意外だったのか、彼女は一瞬だけ考える仕草を見せる。次の瞬間、指先が俺の右頬に触れた。ひやり、と冷たい。
「――あのとき、私に叩かれた頬。もう治った?」
整えた微笑の奥から落とされる囁き。冷たいのに、熱い。その一言で、記憶がフラッシュバックする。
夏の重い空気。蝉の声。遠いチャイム。乾いた一発。右頬に走った火照り。
忘れたふりをしていた場面が、無慈悲な解像度で戻ってくる。
そうだ。二十二年前、俺は霧ヶ峰にビンタされていた。




