第十六話 観覧車で、心の距離を測った日
個室の観覧車。
ゴンドラはゆっくりと上昇し、窓の外に初夏の街並みがほどけていく。
「おお、いい景色だな」
陸は感嘆しながら窓の外を見つめる――が、その表情は少しこわばっていた。
「……で、置いといて。和真、どうした? なんで霧ヶ峰じゃなくて、俺と観覧車?」
理解不能、という目。狭い室内なのに、じりじり距離を取ろうとする。
参った。完全に変態扱いだ。まあ、あの言い方じゃ誤解もする。
「いや、謝っておきたくて」
「謝る?」
「この遊園地、陸が母さんと来た思い出の場所だろ」
言った瞬間、陸の顔から色が引いた。
「……覚えてたのか」
「ああ。正確には、さっき思い出した。忘れてて、ごめん。辛い場所に無理やり連れてきた」
僕が頭を下げると、陸は頭をかきながら苦笑する。
「なんだ、そういうことか。てっきり禁断の告白かと焦ったわ」
肩の力を抜いて、また窓の外へ目をやる。
「正直、覚悟は要ったよ。母さんが死んで七年。ここからの景色も、たいして変わらない。……はしゃぐ俺の頭を撫でてくれた手の感触も、笑顔も、まだ覚えてる」
眉間にうっすら影を落としながら、陸は静かに言う。学校ではいつも明るくて、爽やかで、皆の中心にいる。そんな彼の陰を見られることが、少しだけ嬉しいと思う自分がいる。
陸と僕は幼稚園からの付き合いだ。
母さんが亡くなる前の陸は、社交的とは言い難くて、どちらかといえば泣き虫だった。
それでも彼は変わった――いや、変わるしかなかったのかもしれない。
いじめの現場を見れば、なりふり構わず助けに走るようになった。七年間、一度も「寂しい」と弱音を聞いたことがない。
張りつめた糸がいつか切れるんじゃないか、と心配しながらも、僕は見て見ぬふりを覚え込んで、中学を卒業した。
別々の高校へ進み、連絡も途絶えた。
そんな時間の堆積が、今この小さな箱でふっと剥がれていく。
「覚えてるか? 母さんが死んだとき、和真が言った言葉」
陸が急に笑う。僕は首をかしげた。
「周りはみんな『大変だったね』『何かあったら言って』って、腫れ物みたいに扱った。悪気はないけどさ。でも、和真だけは――ぶっ飛んでた」
「そうだっけ?」
「仕方ないって言った」
「……嘘だろ」
最悪のチョイスだ。幼さゆえの無神経。胸がきしむ。
「でも続きがある。和真だけは、変わらずボール持って家に来た。みんなが避ける母さんの話も、普通に振ってきた。俺はそこで、やっと普通に戻れた。立ち直ったフリも、傷ついたフリも要らなかった。……助かったのは、あれだよ」
真正面から言われ、救われたのは僕の方だった。
「陸って、ドM?」
「違うわ。お前だけが普通でいてくれた、って話」
ゴンドラがゆっくりきしむ。
僕は前から気になっていたことを切り出す。
「僕は逆だと思ってた。……陸、昔は大人しかった。母さんが亡くなってしばらくして、急に明るくなったよな。その明るさ、無理してるんじゃないかって」
陸は一瞬きょとんとして、照れたように頭をかく。
「あー、それね。『キャプテン忍』ってサッカーアニメ、覚えてる? ただ、主人公に憧れてただけ」
「それだけ?」
「それだけ。孤独を隠すためにキャラ作ってるとか、ないない。和真、ドラマの見過ぎ」
言葉を失う僕を指さし、陸はむくれる。
「人のこと言えないぞ。和真だって、人が変わったようにイメチェンしたろ。今までは事なかれ主義で、傍観者でいるタイプだったのに」
「……僕も大人になったんだよ」
「物は言いようだな」
肩をすくめ、陸は両手を広げて大げさに笑ってみせる。
こんなふうに、心の底で会話したのは本当に久しぶりだ。
観覧車はさらに高く。窓の外で、街の音が少しずつ遠くなる。同じ高さに並ぶのは、景色だけじゃない。僕らの呼吸も、昔みたいに、ゆっくり揃っていく。
僕たちが観覧車を降りるのとほぼ同時に、霧ヶ峰と桜井も反対側のゴンドラから降りてきた。
「ちょっと。なに、その顔。……二人とも、すっきりした顔して」
霧ヶ峰が僕と陸を交互に見て、眉をひそめる。桜井もぱちぱちと瞬きを多めにして、首をかしげた。
「いや、和真に観覧車誘われたときは身の危険を感じたけど、案外いいもんだな。男同士も」
陸は清々しい顔で言い放つ。霧ヶ峰の冷気はノーダメージらしい。
「日向くんに、告白された?」
「ああ。熱かったぜ」
霧ヶ峰のにやけに、陸が乗っかる。――が、冗談が通じていない人が一名。桜井は目をまんまるにして、麦わら帽子をぎゅっと押さえた。
「桜井さん、冗談。ぜんぶジョークだから安心して」
「えっ……あ、そっか。びっくり、した……」
ほっとしたように息をこぼし、桜井はトートの持ち手をもじもじ、指先で折り曲げる。
昼食のあと、ジェットコースター、コーヒーカップ、メリーゴーランドと定番を制覇。
もちろん僕は陸と桜井が二人になれるよう、霧ヶ峰とペアで動いた。
「じゃ、次どこ。――詩音、行きたいとこは?」
「わ、わたし……お化け屋敷、行ってみたい」
意外と即答。小さな声なのに、芯がある。
「いいねぇ。桜井、怖かったら『キャー!』って俺に飛びついていいよ」
「……っ」
桜井は瞬時に顔を真っ赤にして、麦わらのつばを下げた。
「わ、悪りぃ。怒ってる?」
「怒ってない……」
俯いたまま首だけ小さく左右に。――小動物感、爆発。
「うわ、あのリア充。爆発すればいいのに」
僕が遠巻きに毒づいてみせる。
――いつもならここで霧ヶ峰が、
『妬かないの。ほら、私がいるでしょ』
と肩を叩いてくるはずなのに、反応がない。
振り返ると、霧ヶ峰の顔が紙みたいに真っ白だった。
「霧ヶ峰さん、大丈夫? 具合悪い?」
「べ、別に。ぐ、具合は――問題ありません」
なぜ敬語。重症のサインだ。
彼女はお化け屋敷の看板を見つめ、ポニーテールをほぼ無意味にきゅっきゅ締め直し、つま先で地面をちょいちょい蹴る。……震えている。
「……もしかして、お化け屋敷、苦手?」
「っ……違う。子どもだまし」
強がりながらも、声が上ずる。迫力ゼロ、完全にウサギの目。
「無理ならやめよう。ほんとに」
「大丈夫。行く。――行ける。たぶん。……行く」
語尾が迷子になっているのに、腕だけはがっちり掴んでくる。
ちょっと、霧ヶ峰さん。僕の腕は握力測定器じゃないよ。
「日向くんは怖いんでしょ。わたしが――て、手を、結んで、差し上げます」
「日本語が故障してるよ」
「……再起動中よ」
顔だけキリッとして言うの、ずるい。
その一方で――
「じゃあ、行こっか」
「……う、うん」
陸が差し出した手に、桜井がおそるおそる触れる。その瞬間だけ、指先がにゃんと丸くなるのを僕は見逃さなかった。
その後も休憩をとりつつ、いろんなものに乗った。
遊園地を出て、仙台駅に戻った頃には時計の針も十八時を回っていた。
「いい気分転換になったわ。――詩音も楽しかったでしょ」
「うん。楽しかった。今日は二人とも、付き合ってくれてありがとう」
最初に待ち合わせをした伊達政宗像の前。
僕らはまだ遊園地の余韻が抜けないまま、立ち話を続けていた。
霧ヶ峰と桜井は戯れ合うように笑い、そんな二人を陸が目を細めて見守っている。
「もう十八時過ぎ。外も暗くなってきたわね」
霧ヶ峰が時計を見て、ふっと顎を上げる。
「――一ノ瀬くん、女二人じゃ危ないし、詩音を送っていって」
唐突に放たれた一言に、桜井は「な、なに言ってるの、翼ちゃん!」と慌てて霧ヶ峰の腕を引いた。
その一瞬、二人が目を合わせる。言葉はないのに、視線だけで何かを交わした気配があった。
「そうだな。じゃあ、和真のことは……霧ヶ峰頼むな」
陸は戸惑う様子もなく、あっさり頷く。
「任せて。日向くんは、私が守るから」
霧ヶ峰はさらりと言って、軽く親指を立てた。――そこは普通、逆だろ、と心の中で突っ込みながらも、なぜか誰も違和感を覚えていない。
自然に考えれば、四人で一緒に帰ればいいのだけれど、陸は僕と霧ヶ峰を二人きりにさせたほうがいい――という誤解をしたまま、快く引き受けたのだろう。
結局、僕たちはその場で解散することになった。
夜の気配が広がるコンコースに、人の流れと靴音が重なっていく。
それぞれの帰り道が、今から少しだけ――分かれていく。




