第十二話 救われたはずの未来で
あれから一週間ほどが過ぎた。
桜井のいじめは、完全に消えた。現場を見たわけではないが、桃井・沢尻・遠野の三人がそろって桜井に謝罪したと聞いた。それだけじゃない。今では教室のあちこちで、桜井が三人と並んで笑っている。
けれど一番驚いたのは、霧ヶ峰と桃井が肩を並べて歩く光景だった。
我は強い。言い合いも多い。それでも、根っこのやさしさだけは、互いに見抜いているのだろう。
ともかく、桜井は転校の運命を回避した。未来は変えられる。その事実が、何より嬉しかった。
放課後。
窓から差す夕陽が机を橙に染める。部活の時間になっても、まだ数人が残っていた。桜井と桃井も、その中にいる。
「久美ちゃん。行こっか」
桜井が鞄を肩に掛け、柔らかく微笑む。桃井は一瞬だけ視線をそらし、気恥ずかしそうに頬をかいた。
「……べ、別に、あんたと一緒じゃなくてもいいんだけど」
「うん。でも、いつも待っててくれるでしょ」
「……うっさい。変なこと言わないで」
照れ隠しに早足で出ていく背を、桜井が追う。
二人の足音が廊下に伸び、夕焼けの光がそれを細く長くなぞっていく。
――あの日、壊れかけていた関係は、たしかに繋ぎ直された。
過去の傷は、完全には消えないかもしれない。けれど、彼女たちはもう前を向いている。
夜。風呂を上がって自室へ戻り、ベランダで夜空を仰ぐ。
五月末にしては、まだ少し肌寒い。けれど空気は澄み、星がひときわ強く瞬いていた。
「……これで、良かったのかな」
小さくこぼした声は、夜気に溶けて、すぐ見えなくなった。
つぶやいた声が、夜風に溶けた――その瞬間、ベランダの夜が紙の端みたいに折れ、視界が裏返る。
次に俺がいたのは、現代のリビング。ソファの沈み、エアコンの低い唸り、柔軟剤の匂い、テーブルの転がったキャップ——全部が正しい位置に戻っていた。
「……父さん?」
陽翔の声が遠くから近づく。隣で美羽が小さく息を呑んだ。
「おかえりなさい……で、合ってますか? その、タイムスリップは」
「父さん、今、十秒くらい黙って固まってたよ」
なるほど。向こうで過ごした二週間は、こっちでは十秒。
「ああ、戻ってきた。タイムスリップ、成功だ」
「それで、桜井さんは?」
美羽の問いに答えようとした時、
「おい、写真が!」
陽翔の叫び。アルバムを覗き込んだ俺は息を呑む。
さっきは女子剣道部六人の、笑顔のない集合写真。
今は――八人。増えた二人は、桜井詩音と桃井久美。そして表紙の横には団体優勝。
賞状とトロフィー、全員が笑っている。
さらに別の一枚。剣道着の詩音と久美が肩を寄せ、詩音はトロフィー、久美は準優勝の賞状。久美の顔に悔しさはない。ただ、やり切った笑顔。
「……桜井詩音を、救えたんですね」
美羽のささやきに、僕は首を振る。
「僕じゃない。救ったのは霧ヶ峰さんだ。——それに、救われたのは詩音だけじゃない。桃井も、だ」
「じゃあ未来は変わる。みんな助かる」
胸を撫で下ろす僕に、美羽は首を傾げる。
「どうして未来が変わるんですか? 救ったのは桜井詩音さん。……本当に桜井詩音が犯人なんですか?」
言葉が止まる。事件は桜井詩音の犯行で処理された。だが、真実は不明。背筋を冷たいものが走る。もし別の真犯人が——。
「推理は要りません」
美羽が静かに切る。
「あなたは名探偵じゃない。犯人探しに意味はない。必要なのは事件を起こさないこと。そして、和真さん、あなたの後悔をやり直すことです」
背中を押され、僕はページを繰る。古い光沢紙のざらつきが指先に残る。
ふと、手が止まった。
三年の最後の夏。サッカー部の集合写真。
土のグラウンド、傾いた夕陽、汗で濃くなったユニフォーム。決勝まで勝ち上がって、最後に負けた。悔しさの残る顔ぶれ。
ただ一人、陸の表情だけが違った。みんなが歯を食いしばる中で、彼だけ抜け落ちた目。悔しさだけじゃない、言葉にならない影。
……なにがあった?
思い出そうとしても掴めない。霧の向こうで手招きされているみたいに、肝心な場面が滑る。
「美羽ちゃん。次は、この写真にする」
「サッカー部の集合写真……ああ、和真さん、サッカー部だったんですね。だから陽翔も——」
「べ、別に父さんがやってたからじゃねぇし」
陽翔は視線を逸らし、耳だけ赤い。
「ふふ、否定しなくてもいいのに」
肩をすくめ合う二人。……父親の前でイチャつくな。
「この決勝の敗戦——俺は、あの時を悔いてる。未来を変える。今度は、必ず勝つ」
「わかりました。……頑張ってきてください」
美羽が真剣にうなずき、写真の端へそっと指を添える。僕も同じ場所に指を重ねた。
まぶたを閉じる——世界が弾ける。
白い閃光。ホイッスルが、鋭く鳴った気がした。
第二章




