第七章「記録なき日々と、新しき危機」 第4話「神なき言語、神なき決断」 〔後編〕「命名の塔、最下層にて」
命名の塔――それは、空に向かってそびえる尖塔ではなかった。
地の奥底へと続く、記録の階層だった。
剛たちは、無名の男に導かれ、幾層もの「記録の部屋」を抜けていく。
一階層ごとに、かつて名付けられた存在たちの残響が渦巻く。
「これは“勇者”だったもの」
「これは“妹”だったもの」
「これは“裏切り者”だったもの」――
名前が剥がれ、意味だけが残った残骸。
だがそれは剛の目には、「誰かにとっての愛しい記録」に見えた。
「全部、誰かが“呼びたかった”名前だ」
やがて、彼らは最下層へと辿り着く。
そこには、何もなかった。
空間すら曖昧な“白の間”。
中央に、“存在するだけの存在”がいた。
それは形もなければ、性別も、思考も、時間さえもなかった。
ただ、存在だけがそこにあった。
ナナが息を呑む。
「これが……“名を与えられなかった最初の存在”」
ティナは震えながら口を開く。
「世界が始まる前、神が最初に“定義しようとしなかった”……
つまり、最初の拒絶された命」
剛は、一歩前に出る。
誰にも止められなかった。
“それ”は言葉を持たなかったが、確かに剛の中に問いが届いた。
――おまえは、私に名を与えるか?
――それは、私を檻に閉じることではないか?
――それでも、おまえは、名を呼ぶのか?
剛の中に、かつての記憶がよぎる。
何度も死んで、転生して、スキルと耐性を得て……
でも、そのたびに「名前」と「記録」に苦しみ続けた自分。
けれど、同時に思い出す。
自分を名前で呼んでくれたナナの声。
励ましてくれたティナの眼差し。
“おっさん”と呼ばれ、それでも大切にされた、ささやかな記憶。
「……俺は、お前を“閉じ込める”ために名前を呼ぶんじゃない。
“ここにいた”ってことを、記録するために呼ぶ。
名は檻じゃない。“灯り”なんだ。見失わないように、呼ぶだけだ」
剛が手を伸ばすと、“それ”は微かに震えた。
名を呼ぶ――その行為が、まさにこの世界の更新であり、再定義。
「俺は、お前を――アルスと呼ぶ」
瞬間、白の間に音が生まれる。
風が、音を持った。
空間が、名前を持った。
“存在するだけの存在”が、**名前を持った存在“アルス”**へと変わった。
ティナが泣いていた。
「ありがとう……名前を呼ぶって、こんなに……苦しくて、優しいことなんだね……」
ナナが呟く。
「この世界は、今――“誰かが名前を呼ぶこと”で、再構築された。
神はいなくても、“誰かが名を呼んでくれる”なら、私たちは世界に存在できる」
“アルス”は、言葉ではない共鳴を最後に一度だけ残し、静かに姿を消した。
その共鳴は、剛の胸にこう刻まれた。
――ありがとう。“存在を、存在と認めてくれて”。
剛は、膝をついた。
その瞬間、命名の塔の最上層が光を放ち、世界中に名前の波が広がっていく。
奪われた名が戻り、失われた記憶が再び胸に灯る。
その名を呼ぶ声が、世界中から、同時に重なっていった。
剛が呼んだ名は、もう消えない。
これは、神がいない世界で、“人が神の責任を引き受けた”物語の、その一歩。
──第七章・完。




