第七章「記録なき日々と、新しき危機」 第4話「神なき言語、神なき決断」 〔前編〕「奪われた名と、声なき叫び」
――“名前”が消えていく。
それは静かに、確実に世界の奥から始まっていた。
ある朝、アリエル村の北にある交易路で、ひとりの旅人が倒れていた。
「名前が……名前が、思い出せないんだ……!」
彼の上には、職業もレベルも、すべての記録が空白となったステータスウィンドウ。
魔法も使えず、所持スキルもすべて“未定義”と表示されている。
駆けつけた剛たちがその異常に気づくよりも先に、同様の現象がいくつもの町や村で起き始めていた。
「“命名システム”の根幹が壊れ始めているわ……これはただのバグじゃない」
ナナが、顔を青ざめさせながら言った。
「第ゼロ言語……。あれは共鳴の言葉、つまり“定義されない力”……。
でも、それが拡散しすぎると、“すべての名前が意味を失う”」
剛は、手元に残された羊皮紙を見つめた。
以前は微かに響いていた“無音の祈り”は、今や脈打つような震えに変わっていた。
まるで――この世界そのものが、静かにうめいているようだった。
「誰かが……意図的に、これを使ってる?」
ティナの問いに、ナナは頷く。
「ええ。おそらく“ゼロの主義者”たちが、“命名の塔”そのものに干渉している。
今までは“選択”だったのに、それを“強制的な無定義”に変えようとしている」
そして、その中心にいるのは――シロ。
剛は、焚き火を前に腰を下ろし、言った。
「シロは、最後にこう言ってた。“人が神になる”って。
でも、もしかしたら……彼自身が、“神を否定した最後の神”になろうとしてるのかもしれない」
アリエル村の子どもたちの中にも、変化は出始めていた。
“名前を呼ばれること”に違和感を感じる者。
逆に“名を失うこと”に過剰に怯える者。
「名前を呼ばれるって、なんだか……遠くへ引っ張られる感じがする」
「お兄ちゃん、私の名前、忘れないよね……?」
剛はその声を、胸に深く刻む。
「俺たちは、“名を与えることの責任”に耐えられると信じた。
でも今、その名前の“根っこ”が引き剥がされようとしてる。
だったら俺たちは――“もう一度、名を守る”って決めなきゃいけない」
ナナが、息を呑むように呟いた。
「もしかして……“命名の塔”が狙われてる。
世界中の名前の根幹にアクセスできる唯一の場所。そこを壊されたら、本当に“名前の消失”が止まらなくなる」
剛は静かに立ち上がった。
「行こう。“名前を失う”前に、“名前を守る”ために。
これはもう、“神がいないから”じゃない。“神の代わりになる”って決めた俺たちの戦いだ」
その言葉に、ナナもティナも頷いた。
アリエル村の石碑の前で、村人たちはそれぞれの名前を抱きしめるように口にした。
その響きは、小さく、けれど確かに、名のない風に抗うように響いていた。
──中編へつづく。




