第七章「記録なき日々と、新しき危機」 第3話「神なき世界に、命名すること」 〔中編〕「第ゼロ言語と、命名の呪い」
その夜、アリエル村の西端――封じられた遺跡跡にて。
そこにいたのは、シロだった。
かつて剛たちと何度も交差し、記録を否定し続ける男。
彼は古びた石版に手をかざし、微かに浮かび上がる文様を見つめていた。
「……やはり、この場所に“ゼロの言葉”は眠っていたか」
彼の背後に、一人の影が現れる。
「“名を持たぬ者”の長として、あなたがここを暴くとは意外だわ、シロ」
それはラミエルだった。
今はアリエル村との協調を模索する者でありながら、彼女もまた“記録の闇”を知る者。
「ラミエル。君も感じているだろう、この世界の言葉の歪みを」
シロの声は低く、どこか憐れみすら帯びていた。
「“名を与える”という行為――それは、存在を定義するだけでなく、可能性を削る呪術だ」
「でも、名は繋がりを生む。共に歩むための……」
「違う。“名”は、管理と支配の道具だ。
最初の神はそれを理解していた。だから、すべての存在が“まだ名を持たぬとき”、世界は完全だった」
ラミエルは息を呑む。
「……あなた、“第ゼロ言語”を探しているの?」
シロは頷いた。
「“名前が存在しなかった世界の言語”。
純粋な意思伝達の力。定義も分類もなく、ただ共鳴だけで通じ合えた時代」
そして、石版に手を置く。
古代文字の列が浮かび上がる。音もないのに、確かな“何か”が伝わってくる。
それは、声なき共鳴。
記録されない感情、記号化されない“本当の心”。
「これが……“第ゼロ言語”」
シロは続ける。
「俺は、“言葉を定義として使う世界”を壊す。
記録による世界支配を終わらせ、すべての存在が“在るだけで許される”時代に戻す」
ラミエルは震える声で問いかける。
「でも……あなたのその思想もまた、“新たな定義”なのではないの?」
シロは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「……そうかもしれない。だが、その矛盾すら超えるのが“第ゼロ言語”だ。
言葉が定義であるうちは、俺たちは神の模倣者でしかない」
そしてシロは、ラミエルに一枚の書を手渡す。
「これを、剛に渡してくれ。
あいつは……きっと、“この世界の名付け役”として選ばれてしまった人間だ。
だからこそ、命名の果てにある責任を知るべきだ」
ラミエルは、その古びた羊皮紙を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……渡すわ。彼は逃げない。必ず向き合う」
シロは微笑んだ。皮肉ではない、どこか祈るような微笑みだった。
「神がいないなら、人が神になる。
だが、それは“呪い”であることを、忘れるな」
──後編へつづく。




