第六章「神なき世界と再定義される命」 第2話「記録執行官ユグ=エルと、試される存在価値」 〔前編〕「残響と夢と、もうひとつの審問」
黒い扉の向こうは、静かだった。
耳が痛くなるほどの無音。
目の前に広がるのは、果てのない回廊――しかしその壁には本がなかった。
代わりに、床と天井と壁に、“浮かぶような文字列”がゆらめいていた。
それらはまるで未確定の思考のように流れ続けている。
記録というより、“予測されなかった未来”のような、不安定な情報の塊。
「……ここが、“グランアーカイブの中核”?」
ティナが低くつぶやいた。
「まだ“書き込まれていない”領域だ」
ナナが、注意深く周囲を見渡す。
「つまり……この場所そのものが、私たちの行動次第で書き換わる」
剛は無意識に、先ほど倒したはずの記録執行官ユグ=エルの名前を思い出していた。
灰色の仮面。感情なき語り口。
そして、あの最後の言葉――
「記録の運命は、ここでは終わらない」
それは予告だったのか。あるいは……警告か。
そのとき、空間が震えた。
揺れというより、“存在の座標”が揺らいだような違和感。
剛が振り向くと、いつの間にかティナとナナが消えていた。
「……!? おい! どこだッ!?」
返事はない。
視界が、歪む。足元が、崩れる。
気づけば剛は、ひとりで――自分の過去の転生体験の中にいた。
目の前に立っているのは、自分だった。
転生三回目。火山の魔物に焼かれて即死した、かつての自分。
四回目、毒を吸って即死。
五回目、ドラゴンに踏まれて即死。
六回目、スライムに溶かされて即死。
記録の彼らが、囲むように剛を見ている。
「また来たのか、オレ」
「今回のオレも、どうせまた死ぬんだろ」
「変わらねえよ、何も」
「無駄だって気づけよ」
剛は拳を握りしめた。
だがその言葉に、完全に反論できる自信はなかった。
――おれは本当に、前に進めてるのか?
そのときだった。
またしても、聞き覚えのある声が頭に響いた。
「お前はまだ、証明していない。
“存在の価値”とは、外部が定義してこそ初めて成立する」
灰色の仮面。ユグ=エルの姿が、目の前に現れる。
「私の本体は敗れたが、“記録残響”として、再び問おう。
転生者・剛。お前の存在は、いかなる基準で、価値あるものと定義され得るのか」
剛が歯を食いしばる。
「そんなもん……俺が、生きて、誰かと関わって――」
「関係性に依存する定義は不安定だ。
他者が消えれば、その価値も消える。
ならば再度問う。“お前自身”に価値はあるか?」
――まただ。
自分自身の価値を、自分で定義することの難しさ。
剛は目の前の“かつての自分たち”を見回す。
誰もが、挫折し、敗北し、命を落とした過去。
でも、それを積み重ねてきたのが――今の自分。
「価値は……後からつけるもんだろ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「最初から価値がある人生なんてねえよ。
でも、やり直して、歩き直して、何度も後悔して――
それでも前に進んで……俺はここにいる」
仮面の奥のユグ=エルが、ふっと目を細めたように見えた。
「ならば――証明してみせろ。
この“無記録空間”に、お前の存在を刻めるかどうか」
白い空間に、再び“試練の構造”が現れる。
次の審問は、記録に書かれなかった“未来の意思”を問うもの。
それは――剛ひとりの、心の闘いだった。
──〔中編へつづく〕




