第十二章「誰にも記されない物語」 最終話「記録のないその先へ」〔前編〕 ──世界の果てに、小さな光が灯る。
朝日が草原を照らす。
夜の静けさは消え、世界がまた新しい一日を迎えていた。
剛は、いつものように拠点の周囲をゆっくりと歩く。
木々に囲まれた簡素な道を抜け、小川のせせらぎに耳を傾けながら、
土の匂いと風の音を全身で感じていた。
──この世界には、神はいない。
──記録も、権威も、未来を保証する仕組みもない。
あるのは、たった一つ。「今、ここにいる」という感覚だけだ。
「剛、おはよう」
鍛冶場の前で、ティナが鍛造槌を肩に担いだまま声をかけてきた。
「今日も剣の依頼が来てるわよ。名前は要らないってさ。ただ、“よく切れるやつ”をって」
「……いいね、それ」
二人で笑い合う。
誰のための剣か、何のための戦いか、そんなものを問う者はいない。
ただ「この人の手に合うものを」と願って打つ剣。
それが、今の彼らにとっての“技術”であり、“祈り”だった。
リノアは高台の観測塔から風の動きを見ていた。
「南風、やや強し。今日は麦がよく乾くわね」
「風の音も、だいぶ馴染んできたな」
「うん。……この世界、やっと“自分の鼓動”で生きてる気がする」
剛はうなずきながら、拠点の中央にある小さな小屋へと向かう。
その奥には、彼だけが使っている──一つの机と、一冊の本。
それは、かつて神の図書館で拾った“空白の書”だった。
誰にも記されなかった未来。
神も知らない、たった一人の人間が生きた証。
剛は今日も、ページをめくる。
そこにはこう書かれていた。
「昨日は風が強くて、洗濯物が飛んだ。ティナが笑って追いかけた。」
「ルナが新しいパンを焼いた。名前は“なんとなくおいしそうなパン”。」
「夜、リザードマンたちと囲炉裏を囲んだ。“言葉”より“うまい”が伝わる。」
それは歴史ではなかった。叙事詩でもなかった。
ただ、「今日、自分が生きた」という、まるで落書きのような記録だった。
けれど、剛は思う。
それこそが、生きるということだと。
誰かの承認がなくても。未来を保証する神がいなくても。
──今日を、生きた。それだけで、十分なんだ。
──〔中編へつづく〕




