そのヤカンには、もう名がない
ただ君を忘れたくて。
名前が書かれたヤカンを、磨き続けていたのは。
坊主頭に新しいジャージ。春の風はまだ肌寒かったが、胸の奥は熱くたぎっていた。
猪狩正平、高校ラグビー部の新入生。入学式の翌日、迷いながらも部活見学に足を運んだ。
体育館裏のグラウンド。どこか殺伐とした空気に満ちたその場所で、彼の未来を決定づける出会いが待っていた。
「わっ、ガタイ良いねー!ラグビーのブレイクダウンにピッタリだよー!!」
その声の主は、ラグビー部2年のマネージャー、佐伯美月だった。陽射しの下、ラグビーボールを持ってぴょんぴょん跳ねる姿が妙に印象的で、言葉よりも笑顔が記憶に焼きついた。
猪狩は身長180cm超え、がっしりとした肩幅と分厚い胸板を持つ体格の持ち主。しかし、ここまで来るには苦い努力の積み重ねがあった。
中学入学当初、彼は小柄でひょろっとしていた。何かを変えたくて、陸上部に飛び込んだ。長距離と短距離、両方をこなしながら全身を徹底的に鍛え、食事も見直し、夜には筋トレを欠かさなかった。そんな日々を経て、中学3年の頃には一気に身長が伸び、筋肉が乗り始めた。あの頃にはもう、「こうなるって分かってたらウチの部に入れたかったんだがなぁ〜」と、いろんな部活の顧問に声をかけられていた。
高校では“チームスポーツ”に挑戦したいと考えていた。誰かと勝利を分かち合いたい、誰かに必要とされたい。そう思ったときに佐伯のその言葉が胸に刺さった。
ああ、これこそが、必要とされるということか。
その瞬間、猪狩は迷いなく「入部します」と答えていた。
佐伯先輩は、特別扱いなどしなかった。誰にでも同じトーンで優しく、気配りを欠かさない。だが、猪狩にはそれがもどかしく、そして嬉しかった。
水を運び、テーピングを巻き、泥だらけのジャージを回収していく。その全ての所作が、美しかった。
あの日、あの瞬間、彼の人生にラグビーと――恋が同時に始まった。
春の基礎練が終わり、夏が近づく頃には、猪狩はチームでも目立つ存在になっていた。筋肉が叫び、肺が焼けるような猛練習の中、彼は黙々とタックルを繰り返した。
体格だけなら1年でも飛び抜けていたが、技術はまだ未熟。誰よりも下手で、誰よりも不器用だった。だからこそ、誰よりも練習した。
フランカー。攻守の切り替えで誰よりも動くポジション。タックル、ブレイクダウン、ラック、モール。
“止めて、奪って、繋ぐ”を全身で覚える日々。
朝練で一人スクワットを繰り返し、放課後の筋トレルームでは黙々と懸垂を続ける。猪狩の練習量は異常だった。だが、それには理由があった。
佐伯先輩が見てくれている。声をかけてくれる。たったそれだけで、体が動いた。
「正平くん、今日もすごいね」
その言葉が、水よりも、酸素よりも、彼の命を支えていた。
チームメイトには猪狩という名字も手伝い“イノシシ”と呼ばれるようになった。直線的で、頭から突っ込んでいくプレースタイルが由来だったが、猪狩は気に入っていた。
ある日の練習後、佐伯先輩が笑いながら言った。
「イノシシくんって呼ばれてるんだってね。うん、ピッタリ!」
その言葉に、心が熱くなるのを感じた。
汗と泥にまみれた日々の中で、猪狩の中に1つの感情が芽生えていた。
この想いを、佐伯先輩に伝えたいと。
初秋、地区予選の準決勝当日。猪狩はスタメンとしてグラウンドに立っていた。
チームは強豪校との接戦となった。
後半3分を残し、スコアは12-17。
審判の笛が響く。相手のノックオン(前方へのこぼし)でプレーが止まった。
敵陣22メートルライン付近、中央スクラムからの再開。
ラストワンプレーになるかもしれない――そんな緊張感が漂う中、猪狩は円陣の中心に立った。
鼻息荒く、仲間たちの顔をひとりずつ見回す。
「……こうなったら、俺がトライ取ります」
「……っざけんな、フランカーのお前が!?」
「いいからボールください! お願いします! 俺が行く。ぶち抜いて、トライ決める」
一瞬、空気が止まった。
でも、その目が冗談じゃないと分かると、仲間たちは黙ってうなずいた。
その視線が、一瞬だけグラウンド脇の給水係――佐伯先輩を捉えた。
「佐伯先輩! トライ取ったら……あなたに、伝えたいことがあります!」
佐伯先輩の手が止まる。ヤカンの水がこぼれた。
「……うん、頑張って。期待してるよ」
再開の笛。
スクラムからボールが出た瞬間、猪狩はオフロードパスを受け取り、一直線に走り出す。
タックルが一人、二人――構わず突き進む。脚は止まらない。倒れそうな味方に一声叫び、倒れ込みそうな自分を鼓舞しながら、地面を蹴った。
「ぉぉおおおおおおお!!」
ライン際、タッチラインギリギリ。最後の一人を、全身で弾き飛ばすようにして、ダイブ。
その手が地面を叩く。
――トライ。
スコアは17-17。難しい位置からのコンバージョンキックだったが、キッカーが落ち着いて決め切った。
19-17。劇的な逆転勝利だった。
「正平くん、かっこよかったよ!」
言葉よりも、その笑顔がまぶしくて、心が震えた。
* * *
その日の夕暮れ、猪狩は部室裏に佐伯先輩を呼び出した。
「俺、先輩のことが……好きです」
数秒の沈黙の後、佐伯は困ったように笑った。
「ありがとう。でも、ごめんね。付き合うとか、そういうの、私……考えてなくて」
猪狩は無理に笑って「わかってました」と答えた。
――強がりは、いつも先に言葉となる。
本当は、届くと思っていた。
それでも、「ありがとう」と言ってくれたことが、唯一の救いだった。
秋の大会を終えてすぐ、3年生は引退した。
* * *
佐伯先輩の姿が消えたグラウンドは、まるで音が失われたようで。誰かの掛け声も、どこか遠くに響く幻のようだった。
パスを繋ぐたび、脳裏に焼きついた声がよみがえる。
指導も、叱咤も。もう二度と返らないと知った日常は、妙に整然として、どこまでも冷たかった。
それでもチームは、冬の新人戦に向けて動き出していた。
だが、結果は初戦敗退。
敗戦の悔しさも、胸を満たす空虚さも、どうにもできなかった。
ある日、猪狩は部室に1人残っていた。
夕日に照らされていたのは、先輩の名前が書かれた専用のヤカンだった。
マジックで書かれた「佐伯」。
ヤカンを机に置く。
ガムテープの芯、使い古しのタオル、洗剤、紙ヤスリ、金タワシ――。
猪狩は部室にある“ありったけの道具”で、無言でヤカンを磨き続けた。
手は止まらず、時間だけが流れていく。
夜も深くなったころ、ヤカンの金属のくすみを磨く手のひらが止まった。
その瞬間、マジックの「佐伯」の文字は、ほとんど読めなくなっていた。
まるで、その名前と一緒に、自分の中の何かが剥がれ落ちていくようだった。
声に出せなかった憧れも、熱くなれた日々も、あの夏に確かに存在していた“誰かを想い続ける自分”すらも。
情熱はかさぶたのように剥がれ落ち、静かに、痛みもなく、ただ記憶の底に空白だけを残していった。
一緒に消えていったのは、ラグビーへの情熱と、自分を信じる気持ちだった。
けれど――佐伯先輩への想いだけは、どう磨いても残った。
あの声が、あの笑顔が、夏の午後に焦げたグラウンドの草の匂いとともに、心の奥に焼きついていた。
「……バカだな、俺」
棚にヤカンを突っ込んで、猪狩はジャージのまま、部室を出た。
その夜を最期に、猪狩が部室の扉を開けることはなかった。
ヤカン、実家にありましたよね……?
誰かの名前が書かれていたかもしれません。