孝子峠
「なあ瑾、まだ起きてるか?」
焚き火に背を向けながら、筵の上に寝転がる瑾に声をかけた。
夜になり、時継達の村から南へ三里ほど進んだ場所にある波有手村近くに野宿することにした俺達一行は妙林を寝かせ、瑾と交代で見張りをしていた。
月は雲に覆われ、せっかくの三日月が拝むことができないが、空に広がる星々はその存在を地上の人々に知らしめている。
なんて風雅なことを考えてみるが、別に詩が浮かんだりはしない。
北西からは夜の海風が吹きつけ、焚き火が揺れる。
亡者が来ないよう、周囲を見張っているのだが、今まさに西側の海岸から、突如現れた亡者が遅々としながらこちらへ迫ってきていた。
妙林は寝息を立てて眠っているが、瑾は目を閉じているだけで、まだ寝静まった様子は無い。
それでも返事が来ないので、俺は鼻息を漏らし、左手で刀の鞘を掴んで鯉口を切った。
海辺から迫る亡者は3体、東側の村や、北や南の街道や田畑から迫り来る影はない。
現れた亡者の足は驚くほど遅い。
人のような造形をした亡者は、足を引きずりながら、彷徨っているだけにも見えるが、確実にこちらに向かっていた。
亡者の色は、影そのものだ。
光が無く、身体は無限の闇が広がっているかのように全ての光を吸収し、影の色を成している。
頭らしき部分に目や鼻といった部位は無く、なぜか身体は服を着ているかのように、腕や足、腰の部分などに、裾のようなものが垂れているように見えた。
亡者の姿については千差万別、稀に影のような色ではなく、生身の人間や動物によく似た亡者も現れる。
その亡者がどこから現れるのか判明すれば、俺の旅も容易く終わるのだが、残念ながら知る限り、その秘密を解き明かした人間は歴史上存在しない。
「おーい瑾、3体だぞ3体、起きて手伝ってくれよ」
再度声をかけても、返事はかえってこない。
本当に瑾に手伝ってもらいたいわけではない。
ただひとりで起きているのが寂しくて、瑾に相手をしてもらいたいだけなのである。
それを理解しているのか、はたまた本当に眠っているのか、瑾は一切応答しない。
前者だとしたら、この男を旅の仲間に選んだのは間違いだったかもしれない。
「⋯⋯ふんっ。わかったよ。じゃあひとりでやるし」
亡者を睨みつけると、左足を引き、グッと力を込め、砂浜にめり込ませた。
そして亡者目掛けて勢いよく跳躍する。
一気に蹴り出された身体は、一飛びで1丈ほど跳躍し、そのままの勢いで亡者の頭上から刀を振り下ろした。
刀で切りつけられた亡者は、呻き声ひとつ上げずに海岸を転がる。だがまだ倒したわけではない。
ほとんど刃は刺さらなかったし、ただ殴ったのと変わりがない。
飛ばされた個体はすぐに起き上がろうと手足をついたが、俺はその亡者を無視し、他の2体に斬りかかった。
亡者も抵抗しようと、高速で腕を振り上げ俺の頭を叩き割ろうとしたが、それよりも早く刀が亡者の胴体を5回斬った。
身体を切断でもしない限り、切り傷は見えない。
なにせ全身が闇に染っているのだから。
だが確実に損傷は与えられ、腕を振り上げたまま動きが鈍る。
「いつまでも手上げてんじゃないぞ」
弧を描くように刀を亡者の手へ払うと、その場に片腕がぽとりと落ちた。
その腕には目もくれず、振り上げたままの刀で亡者を袈裟斬りにすると、亡者はその場に倒れ、溶けるように地上から姿を消した。
「はい次」
まだ距離があった最後の1体へ足を蹴り出すと、また人間業とは思えない速度で接敵し、刀を左右から何度も振り下ろし、亡者に何もさせないまま消滅させた。
最初に切りつけた亡者が残っていたが、意外にも最初の一撃による損傷が大きかったのか、その肉体を維持するので精一杯なのか、立ち上がったのはいいものの、その場から動く気配がなかった。
「じゃあな」
亡者の胸部に刀を突き刺す。肉が刃にまとわりつくような、嫌な感触がした。
全身に力を込め、力任せに亡者の体を胸から下に斬り裂いた。
胴体が裂けた亡者は、倒れる前にその形を崩し、砂のように消えていった。
「はあ⋯⋯」
残骸も残らない砂浜で佇みながら、刀を鞘に収めてふたりの元へ戻った。
戻る道中、奥に篝火を焚いて何人かの番兵が夜の番をしている波有手村が見える。
夕方見えた煤ぼけた長屋で、見張りがいるという安心感で、皆は安眠しているのだろうか。
ふとそんなことを考えながら焚き火の前に戻ると、瑾がこちらを見あげていたことに気がついた。
「ずっと起きてたのか?」
「ああ、風が身体に染みて眠れなくてな」
瑾は鼻息を漏らしながら、冗談かそうでは無いのか分からない声色で呟いた。
だが確かに、瑾の体では野宿は辛いだろう。
だが残念ながら近くには宿なんてものは無い。
そして見ず知らずの家にあがり込めるほど、俺は図々しくない。
「ならどうして俺が山で野宿しようって言った時反対したんだよ」
「山は亡者だけじゃなく獣もいるし、なにより山では彼女が眠れないだろう」
そう、それでも俺は瑾を気遣い、こんな開けた場所よりは過ごしやすい山で夜を越そうと提案していたのだ。
しかし瑾は今も心地よさそうに眠っている妙林のため、その提案を断った。
「あいつは俺達に勝手に着いてきたんだから、少しくらい我慢させてもいいだろ」
「そんなこと言ってるが、本当はそんな気はないのだろう?」
「⋯⋯」
瑾が自分の本心を見透かしているようで気味が悪く寒気がした。
「まあ過ぎたことは置いておくとして、見事だったなさっきの剣技」
「瑾ってかなり人に気を使えるよな。武士だったら気づかないうちにすごい出世してそうな人間だ⋯⋯」
「⋯⋯なんのことだ?」
「⋯⋯まさにそういう所だよ」
目が点になった瑾を見下ろしながら、一応周囲を見やった。
亡者の気配は無い。
野宿の場所を山ではなく海岸にした事で、視界が良好なのは有難かった。
気がつくと、雲の中に隠れていた三日月も、その光でほのかに地上を照らし始めていた。
「あの太刀捌きや体術を人に見せたことはあるのか?」
風が治まり、空間が凪いだ静寂の中、瑾の声が頭に響いた。
波が揺らぎ、焚き火が音を立てているが、瑾の声がもっとも鮮明に聞こえた。
おそらく瑾は、俺の人間離れした技と力について聞きたいのだろう。
「いや、無い⋯⋯あ、いや⋯⋯」
俺は鼻を掻きながら、刀を鞘ごと抜いてその場に腰を下ろした。
いつでも臨戦態勢に入れるように、刀は体の左側に置いた。
「始めてこの力に気がついた時は兄上と⋯⋯そうだ。妙林と市松もいたな」
始めて耳にした名前に、瑾は瞠目して瞬きしながら尋ねた。
「市松というのは、もしかして彼女の⋯⋯」
「ああ⋯⋯弟だよ。俺が殺した」
「⋯⋯」
言葉が詰まった瑾は、砂浜に目を向けながら、静かに何度か頷いた。
瑾が気を使って何も聞かずにいることを知っているので、そのまま話を続けた。
「昔⋯⋯10年くらい前だったかな。4人で猪狩りに出たんだ」
その時の記憶が、脳裏に蘇る。
まだようやく少し文字を覚えたばかりの市松と、元服を間近に控えた兄。そして今より幼く、髪が肩にかかるほどしかなかった妙林を連れて、山に入った。
「あの時市松はまだ5歳くらいで、妙林も部芸なんて嗜んでなかったから、兄上と俺が弓と鉄砲を持ってたんだが、今考えると無茶したよほんと」
「ははっ。その性格は変わらないのか」
相槌代わりに瑾が笑う。
「それでまあ、何とか猪は仕留めたんだ。ちょっと小さいやつだったけどな。それで兄上と猪を運ぶ帰り道で、急に市松が叫んだんだ。蛇だーって。それで俺は吃驚して猪の足から手を離して飛び上がったんだ。そしたら、大人5人分くらいの高さの木の枝に飛び乗ってたんだ」
その時の目を丸くして愕然とする3人の顔が、ありありと浮かび上がった。
特に、兄と妙林はなにか叫んでいたが、その内容までは思い出せなかった。
「なるほどな。お前も驚いただろ」
「そりゃそうさ。あんなの初めてだったし、高すぎて降りるの怖かったし。で、まあその後気づいたんだ。俺には変な力があるって」
「俺も似たようなものだよ。急に身体や刀が軽くなって猿や猪のように動けるようになったんだ。その頃俺はもう1人だったし、遠慮なく力を使ってたが、どうしてお前は隠してたんだ?」
俺は腕を組んで唸った。
「うーん。あれはそのすぐ後だったかな。道場で木刀の素振りをしてたら当時の先生が来てな。構えた木刀に打ち込んでみろって言われたからとりあえず打ち込んだんだよ。そしたら、先生思いっきり壁にすっ飛ばされて⋯⋯いやぁ、ほんと焦ったねあの時は、先生俺の顔みて怯えてたもん。幸いちょっと腰痛めただけですんだけど」
笑い話では無いのだが、その時の先生の顔を思い出して微笑むと、瑾が身体を起こした。
包帯や着物の砂埃を払いながら、焚き火に身体を向けて座り、手をかざした。熱いのは平気なのだろうか。
「なるほど、それで力を使わないように心掛けたのか」
「ああ、大変だったよ。試合なんかじゃ万が一相手を殺したら大変だから、力を抑えすぎて中々勝てなくなって。でも俺の型は綺麗だからって、先生が隠居する時道場を頼まれたんだ」
「⋯⋯ほっぽりだしてよかったのか」
「まあ、あそこは先生の息子もいるからな。あからさまってわけじゃないけど、俺の事あんまり好きそうじゃなかったし、せいせいしたんじゃないか」
「ならいいのか⋯⋯?」
俺が道場を辞めたことに対して、瑾が心を痛める必要は無いのだが、なんともまあこの男は優しすぎる。
「しかしあれだな、いつまでも野宿するとなると、流石に体が辛いだろうな」
瑾は手を火で温めながら揉んでいる。
病か呪いに蝕まれた身体が、風で傷んでたまらないのだろう。
「紀伊国に入ったら、どこか空き家にでもお邪魔して拠点にしよう。そこで暫くは亡者狩りだ」
「⋯⋯まるで野盗だな」
「空き家だって人に使われる方がいいだろ」
「物は言いようだな⋯⋯」
「雨風を凌げれば、瑾も安心して眠れるだろ?」
「⋯⋯そうだな。それで、紀伊国まではどのくらいあるんだ?」
瑾が尋ねると、俺は顎に手を当てて推考した。
今は見えないが、ちょうど村を挟んで東側の位置に、納経山と呼ばれる3町ほどの高さを誇る山がある。
納経山から、俺達が目指す予定の紀伊国北西部の大川峠までは、明日1日歩けば、十分到着出来る距離だ。
「明日国境の峠までいって、明後日超られると思うから、すぐそこだぞ」
「随分近いんだな」
「まあ、俺達の村は和泉国でも南側だからな。摂津ととの間に流れる大和川より遥かに近い」
「そうか」
「堺はいいぞぉ。欲しいものは大抵手に入る」
「と言っても俺達その真反対に進んでる訳だがな」
顔を見合せ、笑い声を漏らした。
夜も耽り、村を見張っている番兵もちょうど交代の時間らしく、人が入れ替わっている。
彼らは、人間の侵入者を排除するためではなく、亡者を排除するために見張りをしているので、海岸で野宿しているだけの俺達に用はない。
だが、たとえ見張っていたとしても、この暗い夜では、余程亡者が接近しないと、その襲来に気づくことは無いだろう。
今まさに海岸に湧いてでた、ふたつの首を持つ大きな犬のような形貌をした亡者に、番兵達は気づいていない。
いやもしかしたら、気づいているが俺達に任せているのかもしれない。
「時継」
「ああ、わかってる」
亡者が近くに出現すれば、その嫌な気配がすぐに身体に伝わる。
俺は地面に置いた刀を持つと、その場で抜いて駆け出した。
亡者に視覚や聴覚があるのかどうかは、どうやら個体によるらしい。
犬型の亡者は、ふたつある頭の、つまり4つの耳を立てると、向かってくる俺に向かって突進した。
正面からぶつかるつもりなのだろう。面白い。
走りながら霞の構えを取り、切っ先を亡者に真っ直ぐ向けた。
「はあああ!」
双頭から牙を向けながら飛びかかってきた亡者の身体を、間合いに入った瞬間に刀で突き刺した。
串刺しになった亡者を刀ごと叩き落とし、刀を亡者の体内で反転させ、強引に斬り上げた。
亡者の体を引き裂いた刀身が、月に照らされ光を帯びた。
「化け物が」
調子に乗るなよと、消えゆく亡者を睨みつける。
亡者が消滅したのを確認し、瑾の場所に戻る途中、村の方から視線を感じた。
足を止め、目を凝らして村を凝視すると、番兵がさっきの攻防を見ていたのか、小さく拍手しているのが見えたが、それが視線の正体だとはどうにも思えない。
もう一度目を凝らし、長屋の格子窓へ順に目を移していくが、家の中は明かり1つないのか、何ひとつ見えはしなかった。
「どうしたんだ?」
「ん、ああいや、なんでもない」
立ち止まって村を見つめている俺を訝しんだのか、瑾が声をかけてきたので、また歩き出した。
「もう今夜は朝まで起きてるか」
「俺が見張るから寝たらどうだ?」
「いや、なんか眠れそうにないないんだ」
瑾の傍に座ると、焚き火で身体を温めた。
そのまま、出来れば俺は朝になるまでふたりで起きているつもりだったが、気がつくと瑾は座ったままいびきをかいていた。
「これ瑾に任せてたら見張り居なくなってたんじゃないのか⋯⋯」
残された俺は、その後も時々湧いてでた亡者を斬り、ひとり朝日が昇るのを待ちわびた。