鷺(さぎ)の舞
旅先でふと目にした石積み。それはその地に伝わる、復讐呪詛の願掛けだった……。
旅先で散歩に出た私は、古色を帯びた石橋を渡っていた。橋の中ほどに差しかかったところで、上流の景色を眺めようと右手の欄干のほうに向き直ると、掌半分ほどの大きさの平たい石が三つ、白みがかった支柱の上に積み重ねられているのが目についた。
何気なく石を手に取ろうとした私は、突然背後から声をかけられて手を止めた。
「あの、差し出がましいようですが、その石にはお触れにならないほうがよろしいですよ」
声の主は、反対側から橋を渡ってきた着物姿の中年女性だった。
「それはこの鷺橋を護っていらっしゃる橋姫様への願かけの石なんです」
「願かけ、ですか?」
私はうまく話が飲み込めずに女性の顔を見つめた。年の頃は四十前後というところだろうか。白地のちりめん生地に描かれた、藍色の雪輪の紋様が涼しげだ。四十がらみの年齢に達しているとは言っても、顔には小皺一つなく、ふっくりとした唇が艶めかしい。
「ええ。一つ二つなら偶然ということもあるでしょうが、三つ重ねとなると、もう間違いありません……。橋のちょうど真ん中の欄干の支柱の上に、川原で拾った石を毎晩一つずつ誰にも姿を見られないようにして積んでゆき、石が崩れることなく五つ積み上がれば願いがかなうというのです。と申しましても、幸福や健康を祈願するわけではありません。この願かけは男に裏切られた女が、どれほどひどい仕打ちを受けたのかを橋姫様に訴えて、代わりに恨みを晴らしていただくためのものなんです。このあたりの者は『願掛けの石を崩すと祟りを受ける』と申しまして、決してその石に触れようとはいたしません。
それにしても、結願の日が水分神社のお祭りの初日だなんて……。願かけの主はどれだけ深い恨みを抱いているんでしょうね」
中年女性はそう言いながらかすかなため息をつくと、私の困惑した表情を見て取ったらしく、急いで申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。いきなりお引き止めして、とんだお耳汚しをいたしました」
「いえ、そんなことは」
「あの、こちらにはご旅行で?」
「ええ。うまい具合に、長めの休暇が取れたものですから」
「それは何よりですね。では、どうぞ良いご旅行を」
「ありがとうございます」
次第に遠ざかってゆく中年女性の後ろ姿を見守るうちに、私は今しがたの会話が現実のものだったのかどうかという、奇妙な疑念にとらわれ始めていた。上品だがいくぶん古風な物言いといい、夏の盛りだというのにいかにもこなれた着物姿で涼しい顔をしているところといい、もし橋姫という神様に仕える侍女が目の前に現れたとしたら、まさに彼女のような姿をしているのではないかと思われた。
今になって考えてみると、観光客が歩き回っているような土地柄でもないのに、私が旅行中だと即座に見抜いてしまったのもひどく不思議な気がする。
橋姫様はよそ者の手出しを疎ましくお思いだということか……。
私がそんなことを考えていた時、橋を渡り切った中年女性は道を左に折れ、私の旅館がある川沿いの農道へと姿を消した。
私は改めて支柱の上の三つ重ねの石を見つめた。あの中年女性の話を聞くまでは、まさかこれが丑の刻参りの藁人形と同じような、人の憎悪の念が形を取ったものだなどとは思ってもみなかった。
石を見つめ続けているうちに、私は自分の右手の薬指と小指が冷えてゆくのを感じた。以前からこの二本の指には感覚が無いので、感覚が残っている中指に、二本の指から冷気が伝わってきたというのがより正確なのだが。
私が指の感覚を失ったのは、十五年前の冬に、妹をインフルエンザで亡くした時だった。私は高校一年で、妹は中学二年だった。先にインフルエンザに罹ったのは私だったのだが、症状は軽く、一日寝込んだだけで回復した。しかし、妹のほうは脳炎を発症したせいで激しい痙攣を起こし、ほとんど意識を取り戻すこともなく四日後に息を引き取ったのだった。
妹が危篤状態に陥ったのは二月七日の深夜で、私は両親と一緒に病室にいた。妹は酸素吸入用のマスクをつけていたが、呼吸は荒く苦しげだった。父にうながされて私が手を取ると、妹は熱にうかされて朦朧としたまま、弱々しく私の薬指と小指を握った。私は何度か妹に声をかけてみたが、彼女の眼差しは宙をさまようばかりだった。
それから一時間足らずの間に妹の病状はさらに悪化し、担当医は病室を離れなくなった。母は三日間ほとんど眠らずに看病を続けたせいで憔悴しきっていたが、泣き出しそうになるのを懸命にこらえて妹を励まし続けていた。やがて、妹の呼吸が次第に弱まるにつれて、先程妹が触れていた私の二本の指の感覚も薄れてゆき、医者が臨終を告げた時には、それらの指にはもう何の感覚もなく、動かすこともできなかった。
一月ほどたってから、私は地元の国立病院で精密検査を受けたが、外的な異状は見つからず、妹を失ったショックによる一時的な神経症だと診断された。しかし、十五年後の今でも、二本の指は全く動かない。
私は自分の指が妹とともに死の世界に行ってしまったのだと考えている。そして、私が不安や悩みを抱くと、〈死んだ〉指は氷のように冷たくなる。私が交際した三人の女性全員が認めているから、これは決して気のせいなどではない。
願かけの石を背後に残して、私は再び橋を渡り始めた。
橋の先の交差点を過ぎて、さらに百メートルほど県道を歩くと、旅館で聞いた通りに、左手側に堂々とした石造りの鳥居が見えてきた。鳥居の左脇に建てられた石の門柱には、『白石水分神社』と刻まれている。あの中年女性の話に出てきた神社だ。
氏子たちが集まって二日後に迫った夏の大祭の準備を進めているらしく、境内からは号令をかける声や、杭を地面に打ち込むカンカンという乾いた音が聞こえてきた。日頃とは打って変わった騒々しさを避けようとしたのか、一羽の白鷺が本殿の後ろの大木から飛び立った。純白の鳥が大きな翼で風をとらえて宙を舞う姿を目で追っていると、自分の心までがそこに吸い寄せられてゆくかのようだった。
白鷺は土手の向こう側にゆっくりと舞い降りていった。水辺で餌を探すつもりなのだろう。私が再び神社の入口に顔を向けると、二十歳位の女性が鳥居の柱の蔭から現れて近づいてきた。
ほっそりとした長身で、淡い水色のワンピースがよく似合っている。黒々とした豊かな髪は背中に届くほど長く、肌は胡粉を塗った京人形のように白い。
私と目が合うと、彼女はかすかに微笑みながら歩道の端に寄って、私の左脇を通り抜けていった。
「白鷺の次は青鷺か……」
先ほど鷺橋と呼ばれていた石橋にその年若い女性が近づいてゆく姿を見守りながら、私はそうつぶやいた。
私の名は塚原憲司。そこそこ名の通った流通会社でショッピングモールの出店計画を担当している、三十歳の独身男だ。
ここ一年ほど、私は群馬県の高崎市と藤岡市の境界近くに建設する予定の新店舗の計画にかかりきりになっていた。特に最近の三ヵ月間は、取締役会で計画の最終承認を取りつけるために、休日も返上して深夜まで資料作りに明け暮れる毎日だった。
もしこの生活がもう一ヵ月続いていたら、いくら残業慣れしている私でも過労で倒れていただろう。なんとか無事に計画が承認されたので、少し骨休みをしようと五日間の休みを取って、藤岡市の北西部にある老舗の割烹旅館に、今日から三泊の予定で滞在することにしたのだった。
旅館の名前はすぐ前を流れる川の名をそのまま取って『鮎川』という。鷺橋が架かっているのもこの川だ。鮎川は名前の通り鮎がよく獲れる川で、旅館のほうも鮎料理を看板にしている。私がここを宿に選んだのも、獲れたての鮎を使った料理が目当てだった。
私は長野県の上田市出身で、釣り好きだった祖父が千曲川で釣ってきてくれる鮎や鮠を食べて育ったので、川魚には目がない。市場調査のためにこのあたりをレンタカーで走り回っていると、鮎の友釣りをしている釣り人の姿を至る所で目にするものだから、川藻の香りがぷんと漂ってくる天然の鮎を存分に味わいたいという思いが頭を離れなくなってしまったのだった。
『鮎川』は昭和初年の創業だということだが、建物は地元の名士が大正の中頃に別邸として建てた数寄屋造りの二階建てで、こぢんまりとしていながらも風格のある構えが、初めて車で通りかかった時から気になっていた。
休暇の申請が通った時、『鮎川』という名前からしてこの季節に鮎料理を出さないはずはないだろうと当たりをつけて電話を入れてみると、通常の宿泊料に二千円の追加で、鮎づくしの特別コース料理を出してくれるという話だった。元の宿泊料が格安なので、追加料金を払っても高崎駅周辺のビジネスホテルと大差はない。まだ空いている部屋があると聞いて、私は即座に予約を取った。
『鮎川』の二階にある客室は二間だけで、奥まった方の部屋が私のために用意されていた。ひと風呂浴びて部屋に戻った私は、広々とした窓から鮎川の流れや、先ほど足を運んだ白石水分神社などを眺めていた。
水分神社の裏手に広がっている畑のちょうど真ん中のあたりに、地面が盛り上がって浅い丸籠を伏せたような形をしている場所があった。広さは十メートル四方ほどで、二メートル近い高さのある頂上には、公孫樹の大木が生えている。二股に分かれた幹からびっしりと葉のついた夥しい数の細枝を伸ばしている姿は、周囲を行き交う者を差し招いているかのようだった。
「お食事の用意が整いましたが、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
そう声をかけてきたのは、松田という五十代の半ばを過ぎた古株の仲居だった。体形はかなり太めで置物の狸のようだが、よく気がまわる感じのいい女性で、夕食までまだ少し間があるからと、散歩や風呂を勧めてくれたのも彼女だった。
「ええ、お願いします。もうすっかり腹ぺこで……」
「はい、ではただ今。梅雨が明けて川の水の濁りがとれたおかげで、形のいい鮎がたくさん上がったそうですから、どうぞお楽しみに」
仲居はこぼれるような笑みを浮かべながらそう言うと、太った体をくるりと丸めてお辞儀をした。
昆布〆、吸い物、塩焼き、天麩羅、鮎飯……。出される料理はどれも目を見張るほど味が良かった。中でも内臓を塩漬けにして作る自家製の苦うるかは絶品で、店が薦める石川県の地酒だという辛口の純米酒の肴に、これ以上のものは考えられなかった。
鮎の塩焼きを出す時、件の仲居は世話好きな性格を発揮して、何でしたら骨をはずしましょうかと声をかけてくれたのだが、私はその気持ちだけを有り難く受け取って、ほくほくと温かい鮎を頭から丸かじりにして食べ始めた。
「おやまあ、今時は皮を残す人までいるのに……。本当に鮎がお好きなんですねえ」
仲居は感心しているとも呆れているともつかないような表情でそう言うと、酒のお代わりを勧めようと徳利を差し出した。
「炭火でこれだけ上手に焼いてあったら、頭だって骨だって美味いですよ。とにかく熱々を食わなくちゃ」
「こんなにきれいに食べてもらえるなんて、鮎たちもきっと喜んでいますよ」
「いや、さすがにそれはどうかなあ……」
仲居の突拍子もない言葉に思わず苦笑しながら、私は目の前の皿の上に横たわっている鮎たちを眺めた。
鮎飯が出てしばらくすると、板場の仕事が一段落したのか、館主で板長を兼ねているという初老の男性が、女将を伴って挨拶に現れた。
「ご挨拶が遅れて失礼いたしました。館主で板長も務めております木村と申します。こちらはご到着の折に簡単なご挨拶はさせていただいておりますが、連れ合いで女将の妙子でございます」
「どうも、ご丁寧に恐れ入ります」
旅慣れているとは言っても安ホテルにばかり泊まっている私は、どぎまぎしながらかろうじてそう答えた。
「私どもの拙い料理がお口に合うかどうか心配でしたが、仲居がもっと盛りをよく、次の料理を早くとしきりに申しますので、どうやらお気に召したようだと胸を撫で下ろしたところでございます」
「鮎料理にこれほど色々な種類があるなんて思ってもみませんでした。もっと一品一品よく味わって食べないと失礼なんでしょうけど、美味し過ぎるものだから、つい我を忘れてしまって……」
「失礼なことなどあるものですか。美味しい、夢中で食べた、そうおっしゃっていただいて、きれいに空になった皿が返ってくる。料理人にとってこれほどうれしいことはございません」
館主がそう言って満足そうに微笑むと、女将が純米酒の入ったガラスの徳利を手に取った。館主よりひとまわりほど若く見える面長の美人で、私はどこかで彼女に似た人に会ったような気がしたのだが、酒の酔いもあって思い出すことができなかった。
「一杯お注ぎしたいのですが、お受けいただけますか?」
「ええ、ありがとうございます」
「さてと、まだお食事の途中なのに長居をしてはご迷惑でしょうから、私どもはこれで失礼いたします。そうそう、明日の献立ですが、姿鮨やうるか焼きなど、ぜひ召し上がっていただきたい料理がまだたくさん控えておりますので、どうかご期待願います」
館主はそう話し終わると、女将とともに一礼して席を立った。
食事の後で、付近の農道でもぶらついて酔い醒ましをしようと考えた私が浴衣姿で玄関口に降り立った時、神社の前ですれ違った若い女性が帳場から現れた。
「あの……、確か水分神社でお目にかかった方ですよね?」
昼間と同じ水色の服を着たその女性は、私のほうにゆっくりと歩み寄りながらそう話しかけてきた。
「ええ」
こうして続けざまに顔を合わせてみれば、彼女と女将が母娘だということは一目瞭然だった。切れ長の目や形の良い鼻など、彼女は多くの美点を母親から受け継いでいたが、肌の白さはやや度を越していて、どこか体調を崩しているのではないかと気にかかるほどだった。
「あの時、このあたりにお住まいの方ではないようだとは思ったんですが、うちにお泊まりのお客様だったんですね」
「そうなんです。で、あなたはこの旅館の娘さんなんですね?」
「ええ、木村美緒と申します」
「さっき女将さんにお目にかかった時、どこかで似た人に会ったなあと考えていたんですよ。母娘とは言え、本当によく似ている……。ああ、そうだ、僕は塚原憲司。鮎川の鮎を目当てにやってきた大食い野郎です」
「帳場も塚原さんの話で持ち切りだったんですよ。塩焼きを丸かじりで四匹も召し上がったとか」
美緒は軽く冗談めかしてそう言って私の顔を見つめた。
「後の料理が入るところを残しておかなくちゃいけないと仲居さんが注意してくれなかったら、倍は食べていたでしょうね。そのあげくに腹がはちきれそうになって、せっかくの鮎飯をあきらめるはめになっていたんじゃないかな。いやあ、あぶないところでした。それにしても、お父さんはすばらしい腕前ですね」
「ありがとうございます。京都の料亭で修業したそうですが、とにかく料理一筋で、館主だと言っても他のことは全部母にまかせきりなんですよ」
「そこがいいんですよ。お客さんはみんなお父さんの料理が目当てでやってくるんでしょう? もっとも、この宿泊料じゃ、切り盛りする女将さんは頭が痛いでしょうけど」
「そうなんです。帳簿とにらめっこしては、ため息ばかりついているんですよ。あの、これからお散歩に?」
「ええ、川風に当たって涼んでこようかと」
「それじゃ、提灯をお貸ししますからお持ちください。農道はうちの前や鷺橋の近くは大丈夫ですが、場所によっては街路灯がなくてかなり暗いところがありますから」
美緒はそう言って帳場に入ると、旅館の名前が入った円筒形の弓張提灯に火を灯して戻ってきた。
「どうぞこれを。途中で火が消えるといけないので、マッチもお持ちください」
「助かります。提灯とは洒落ているなあ」
「ではお気をつけて。あ、そう言えば、あの後お参りをなさったんですか?」
「いや、それが、境内をのぞいてみたら祭りの準備で大騒ぎだったんで、また出直すことにしてそのまま帰ってきてしまったんですよ」
「せっかくいらっしゃったのに、生憎のことでしたね。舞台の建て込みが始まったばかりのところだったんです。もしよろしければ、明日わたしがご案内しましょうか。午後には『鷺舞』という奉納舞の通し稽古が始まるし、お祭りの前日らしく、浮き浮きとしたいい雰囲気になっていますよ」
「本当ですか?」
私は美緒の思いがけない申し出に驚いて彼女の顔を見つめた。
「でも、散歩の供までお願いするのは、いくらなんでも虫が良すぎるような気がするなあ」
「三泊もしていただく大切なお客様なんですから、どうぞご遠慮なく。この旅館の娘として、わたしもそれくらいのおもてなしはさせていただきたいんです」
「それじゃ、お言葉に甘えて、ぜひご一緒に」
「では明日、お昼を召し上がった頃にお部屋までうかがいますから」
「了解しました。しかしついているなあ。明日が楽しみだ」
「どうぞお気をつけて。ああ、気持ちのいい風!」
私を見送ろうと玄関口を出た美緒の長い髪を、鮎川の匂いを含んだ風が軽やかになびかせた。
「かなり気温が上がってきましたね。こんな暑い日につきあわせてしまって申し訳なかったなあ」
鷺橋を渡りながら、私は右隣を歩いている美緒にそう声をかけた。様々な野鳥のイラストが描かれたTシャツにデニムのショートパンツという軽装の彼女は、昨日よりもずっと若々しく見えた。
「お気になさらないでください。正直にお話すると、時間をもてあましていたのはわたしのほうなんです。大学が夏休みに入って帰省しているんですけど、慣れない寮生活で少し体調を崩したせいで、体を休めなければいけないと何もさせてもらえなくて……。でも、今はもうどこも悪くないんです。変に気を使われるとかえって居心地が悪くなることってありますよね? 中学生になってからは、学校が休みの日は手伝いをするのが当たり前だったんだから、これまで通りにさせてくれればいいのに。わたし、小さい頃から旅館の仕事が大好きだったんです」
「なるほど、まだ若いのによくこれだけしっかりした接客ができるものだと感心していたんだけれど、子供の頃から手伝いをしているうちに自然と身についたものだったんですね。きっと将来はお母さんのような、評判の美人女将になるんだろうな」
「いいえ、わたしは女将にはなりません。跡を継ぐのは兄ですから」
「お兄さんが?」
「ええ、父の兄弟子が京都でやっている料亭で修業しているんです」
「そうだったんですか。まいったな、独り合点したあげくに、的はずれなことを言って……」
「そんなことをおっしゃられてはこちらが困ります。どうかお気になさらないでください」
何か他の話題はないかとあたりを見回した私は、昨日中年の女性から願かけの話を聞いた欄干の支柱の前に差しかかっていることに気がついて足を止めた。三つ重ねだった石の上には、もう一つ新しい石が載っている。
「これで四つか……」
「どうかなさったんですか?」
「いや、その、願かけの石が増えたな、と」
「願かけ? ああ、その石のことですね。五つ積み上げることができたら、願いがかなうという……。でも、この町にいらしたばかりなのに、どうしてそれを?」
そう言って不思議そうにこちらを見つめている美緒に、私は昨日の出来事を手短かに説明した。彼女ならあの着物姿の中年女性が誰だったのかわかるのではないかと思ったのだが、はっきりこの人だと言い切れるような心当たりはないようだった。
「あの時間にここを和装で通りそうな人といったら、お花を教えている浦野さんくらいかしら。でも、確かにきれいな方だし、年の頃もぴったりだけど、塚原さんがおっしゃるような妖艶なタイプかという話になると、ちょっと違うような気が……」
と、美緒は小首をかしげて考えこみながら言った。
「昼間から酔っぱらっていたわけでもあるまいにと笑われそうだけれど、自分が夢か幻でも見ていたんじゃないかという気がしてしかたないんですよ。僕が何も知らずに願かけの石を崩そうとしたものだから、橋姫様があの女性をお遣いによこしてやめさせようとしたのかもしれない、とまあ、そんな考えが頭に浮かんでね」
「橋姫様は願いを聞き届けようとしていらっしゃると?」
「うーん、そこまでは何とも……」
私は美緒の何事かを思いつめたような表情にたじろぎながら、どう答えたものかと思案をめぐらした。
「余計な手出しをするよそ者を戒めただけなのかもしれませんからね」
「ええ、確かに、この辺りの人間は決して願かけの石に触れようとはしません。願いを聞き届けてもらえるなら、自分はどうなっても構わない。願かけをする人がそんな風に心を決めていることを知っていますから」
突き放すような口調でそう言った美緒の顔はいつにも増して青ざめていて、貧血でも起こしたのではないかと不安になるほどだった。言うべき言葉を見つけられずに、私は願かけの石に目を移した。願かけをする者への同情と恐れの入り交じった思いを抱いて、この土地の人々は石の前を通り過ぎてゆくのだろう。
「すみません、何だかおかしな話になってしまいましたね。日差しが強いし、もう行きましょう。水分神社の境内は木陰がたくさんあって涼しいですよ」
と、美緒はいつもの快活な口調に戻って私をうながした。気まずい話題はさっさと切り上げて散歩を続けようという彼女の考えに、こちらも異論などあるはずがなかった。
「そうしましょう。このままじゃ、熱中症になりそうだ」
私は左の掌で胸元をあおぎながらそう答えると、美緒と肩を並べて再び歩き出した。
神社の境内には大人用と子供用の大小二基の神輿と、大きな太鼓を載せた山車が置かれ、仮設の舞台では奉納舞の練習が始まっていた。木陰が多いという美緒の言葉通り、素木造り檜皮葺の本殿と拝殿は、左右と背後をぐるりと楠の大木に囲まれている。
「見事な大木ですね」
「ええ、水分神社自慢の楠です。樹齢千年を越すものもあるそうで、枝振りがいいから白鷺の巣がたくさんあるんですよ」
「ここに橋姫様が祀られているんですか?」
と、私は美緒に尋ねた。
「いいえ、この神社に祀られているのは天之水分神と国之水分神です。橋姫様は鷺橋を架ける時に人柱にされた人だとも、雨乞いのために橋の下の川原で人身御供にされた人だとも言われているんですが、結局はっきりしたことは何もわからないんです。ここの宮司さんは郷土史の研究もなさっていて、橋姫様は室町時代にこの神社ができるよりもずっと古い、古代の信仰と関係のある神様なのかもしれないとおっしゃっていました。このあたりでは古墳がいくつも見つかっているんですが、鷺橋の下の川原にも、何か特別な儀式が行われていたらしい跡があるんだそうです」
「歴史のある町なんですね、ここは」
「ええ。そうそう、『橋姫様はやきもち焼きだから、カップルが手をつないで鷺橋を渡ると必ず別れる』っていう噂話があるんですよ。あの橋には『別れ橋』という別名までつけられていて、婚礼の日には絶対に渡らないんです」
「そりゃまた無粋なことをなさる神様だな。美人ほど見込まれてしまいそうだから、縁遠くならないように美緒さんも用心しないと」
「別にどうでも構いません。恋愛も結婚も興味ありませんから」
私としては軽い冗談のつもりだったのだが、美緒はふいに表情をこわばらせると、取りつく島もなくそう答えた。
「もっと気の利いたことを言うつもりだったんだけどなあ。つまらないことを言って申し訳ない。無粋なのは橋姫様より僕のほうでしたね」
白々とした空気をなんとか和らげようと私がそう言うと、美緒は美緒で言い過ぎたと思ったらしく、顔を赤らめながらあわてて頭を下げた。
「こちらこそすみません。お客様に向かって本当に失礼しました。冗談を真に受けてすぐむきになるから困ったものだと母にもよく叱られるんです」
「いやいや、およそデリカシーというものを持ち合わせていない僕が悪いんですよ。とにかく、まずはお参りを済ませませんか」
「ええ」
私は美緒に倣って水盤舎で手を洗い、口を漱いだ。湧き水を使っているのか、石の水盤に溢れている水はひんやりと冷たく心地よかった。
美緒は濡れた手を拭くようにと自分のハンカチを差し出してくれたのだが、私は麻痺した指のせいでうまく受け取ることができなかった。伸び切った二本の指にひっかかったハンカチは、水盤の前の地面にふわりと落ちた。
「あっ」
小さく声を上げてハンカチを拾おうとする美緒を制して、私はハンカチを拾い上げた。
「やれやれ、せっかく貸してもらったのに、すっかり泥だらけだ」
「お気になさらないでください。洗えば済むことですから」
と、美緒はハンカチを受け取りながら言った。
「右手の薬指と小指が動かないから、たまに物を落とすんです。病院では軽い神経症だからじきに直るはずだと言われたんですが、結局、十五年たってもそのままでした」
「そんなに長く……」
美緒は小声でそう言いながら、心配そうに表情を曇らせた。
「まあ、親指や人差し指とは違いますからね。もう慣れっこになっているし、それほど不便でもありません。ただ、もとが不器用だから、時々こんなへまをやらかすわけですが」
「すみません、私、何も気がつかなくて」
「傷があるわけでもなし、誰も気づきやしませんよ。僕のほうこそつまらない言い訳をしました。さあ、早くお参りをしましょう」
「ええ」
私が拝殿の正面に立って、今しがた立て札で見た拝礼の手順を思い出そうとしていると、お手本を見せてくれるつもりなのか、隣にいる美緒が、先にお参りをしてもかまわないかと話しかけてきた。
「もちろんです。どうぞお先に」
「はい、では」
美緒は作法通りに二度お辞儀をして二度柏手を打つと、ふいにこちらをふり向いて言った。
「あの、そちらの手を貸していただけますか?」
「ええと、こうですか?」
その真意は量りかねたが、私は言われるままに右手を差し出した。
「失礼します」
美緒はそう言いながら私の掌を両手で包むようにして自分の額に押し当てると、拝殿のほうに向き直って一心に祈り始めた。
美緒が祈っていた時間は、実際にはせいぜい一、二分だったろう。しかし、あまりにも思いがけない振る舞いに驚いている私には、はるかに長く、何十分にも感じられた。病み上がりということもあって、張りつめた美しさの裏に脆さが秘められているように思える彼女の横顔を、私はただ息を詰めて見守っていた。
やがて、美緒はそっと私の手を放すと、拝殿に向かってもう一度お辞儀をして拝礼を終えた。
「お待たせしました」
「何を祈っていたんですか?」
と、私は穏やかに微笑んでいる美緒に尋ねた。
「塚原さんの指が治りますようにと……。こちらの神様はお名前の通り、元々は水を治めていらっしゃる神様なんですが、子供を守ったり、病気や怪我を治してくださることでも有名なんです」
「そうだったんですか。自分のことのように心配してもらって、申し訳ないくらいだな。僕もあきらめたりしないで、心をこめてお参りしないとね」
私は美緒の心遣いを無にしてはならないという思いからそう答えたが、いくら祈ったところで効果のあるはずはなかった。妹を死なせた事実に対する後ろめたさが消えない限りは、指が治ることなど有り得ないのだ。皮肉な話だが、美緒とのやり取りは、そのことをこれまでになくはっきりと私に意識させたのだった。
「ええ、きっと良くなりますから」
「ありがとう」
私は美緒のひたむきな言葉に思わず微笑むと、拝礼のために姿勢を正した。
私は礼拝を終えると、美緒の案内で奉納舞の稽古を見物した。祭りの時だけ建てられる仮設の舞台はごく簡単な造りで屋根も壁もなく、演者が上り下りする階段が左側についているだけだった。
大人の背丈ほどの高さの板張りの床の上では、白衣、白袴、白足袋という白装束の十代前半の少女が二人、痩身で銀縁の眼鏡をかけた初老の宮司から舞の指導を受けていた。宮司も白衣を着ていたが、袴の色は白ではなく紫だった。
美緒は舞台の下から宮司にそっと会釈すると、鷺舞と呼ばれている舞が少女達によって奉納されるようになった謂れを語り始めた。
「昔、このあたりでひどい日照りが続いたために、仕方なく生贄を捧げるという話になった時、この神社で育てられていた身寄りのない娘が、自分から生贄になると申し出たのだそうです。心変わりして逃げ出すことがないようにと、娘は竹の籠の中に閉じ込められたのですが、雨乞いの当日になってみると、籠の中に娘の姿はなく、一羽の白鷺がそこで死んでいたのだそうです。
人々は娘の正体は水分神社の神様が生贄をやめさせるために遣わした白鷺だったのだと話し合い、それからはどんなにひどい日照りの時でも、生贄を捧げるようなことはなくなりました。
それで、この神社の氏子の娘は年頃になると、生贄をやめさせてくださった神様に感謝するために、鷺の動きを真似た舞を奉納するようになったのだそうです。わたしも中学一年の時から去年まで、あの舞台で舞っていたんですよ……」
美緒はそこで言葉を切ると、懐かしそうに舞台を見つめた。
「それって、今年は鷺舞に出ないということですか?」
「あの子たちが中学生になりましたから、わたしはもう引退です」
「そうなんですか? 一年違いで美緒さんが舞うところを見逃してしまったのか……。うーん、惜しいことをしたなあ」
「そんな、わたしなんて筋が悪くて、何年たっても〈振り〉を間違えないようにするだけで精一杯だったんですから」
「動きはゆっくりしているようでも、難しい舞なんですね」
「ええ、とっても。一番大切だと言われている足の運びがとにかく入り組んでいて、なんとか覚えられたと思っても、ちょっとしたことで頭がこんがらがって足が出なくなってしまうんです」
「足の運びがそんなに?」
「反閇と言って、あたりの邪気を払い清める力があるそうなんですが、その特別な足運びをお囃子に合わせるのが難しくて……」
「なるほど、そう言われてみれば、あの子たちもさっきからしきりに足運びを直されているようですね」
「ええ、でも、二人とも初めてなんですから、あれだけできれば立派なものです。最初の年は特に大変なんですよ。舞の振りだけじゃなくて、舞台の袖の階段を上り下りする時は一段ごとに両足をそろえるとか、覚えなくてはいけない決まり事がとにかくたくさんあるんです。わたしなんか初めての出番が近づいてきたらそれがみんなごちゃごちゃになってしまって、頭の中が真っ白になりました」
「よく無事に乗り切れましたね」
「ええ、本当に……」
美緒は口元をほころばせながらうなずいた。その当時は大変な思いをしたのだろうが、今ではその分だけいっそう懐かしい思い出になっているのだろう。
「仕方がないから一緒に舞台に出ていたもう一人の子の振りを必死で真似ていたんですけど、後で聞いてみたらその子もわたしに負けないくらいあがってしまっていて、夢中でわたしの振りを真似ていたって言うんです」
「いい話だな……。二人とも緊張はしていても、体が動きを覚えていたんでしょうね」
「初めて舞う年にそこまで仕上がっていたなんてとても思えませんけど、二人の息がぴったり合っていたとみんなに誉めてもらってすごくうれしかったことは、今でもよく覚えています」
美緒が少しはにかみながらそう答えた時、お囃子を担当する人々が社務所から現れて舞台の左右に分かれて坐った。横笛と太鼓を受け持つのは四十代から六十代にかけての男たちで、小学生らしい五人の女の子たちは真鍮製の摺鉦を手にしている。舞い手の二人とは違って、お囃子の人々は普段着のままだった。
「いよいよ通し稽古が始まりますよ」
美緒は私にそうささやくと、後輩の少女達がいる舞台に再び目を移した。
夕食の時、私は美緒に聞きそびれたことがあるのを思い出して仲居の松田に尋ねた。
「松田さん、鷺舞の練習をしているのは女の子ばかりだったんですが、男の子はお祭りに参加しないんですか?」
「ああ、男の子はお神輿を担ぐんですよ。小学校に上がる前の子供たちは、男の子も女の子も山車を引きます」
「そう言われてみれば、境内に山車と神輿があったなあ。それで、お祭りの中身はどんなものなんですか?」
「はい、初日は『川入り』と言って、午後三時ごろ鷺橋の下の川原までお神輿を担いで行って川の水につけます。雨乞いのおまじないなんだそうですよ。ちょっと不思議なんですが、お神輿はその後すぐに引き返してしまって、初日は町に繰り出さないんです。山車のほうは夕暮れ時になるとお囃子と一緒に町内をまわります。そして、夜は八時から境内で鷺舞が奉納されて、初日が終わります。二日目は『おいで』と言って、山車とお神輿が町内をねり歩いて、夕方に七輿山の御旅所に入ります。三日目は『おかえり』で、御旅所を出た山車とお神輿がまた町内をねり歩いて、夕方神社に帰り着くと、三日間続いたお祭りもおしまいです……。そう言えば、塚原さん、昼間美緒さんと一緒に水分神社まで行かれたんでしたね?」
「ええ、トコトン、チキチンというお囃子が聞こえて、いい雰囲気でしたよ。美緒さんも去年まで鷺舞に出ていたそうですね。舞姿が見られなくて残念だ」
「本当に。あんな事故さえなければ……」
「事故? 中学生になった子がいるから、しきたり通りに交代したんじゃないんですか?」
「あらいやだ、わたしったら、また余計なことを」
松田はしまったという顔をしてきまり悪そうに口をつぐんだが、一度言いかけた話をそのままにしておくことなど、根っから話好きの彼女にできるはずがなかった。
「松田さん、そんなところで話をやめるなんてあんまりですよ。事故だなんて言われたら気になってしょうがない。よそ者の僕の口から噂が広がったりするはずはないんだから、心配しないで残らず話を聞かせてください」
私がそう言って続きをうながすと、案の定松田は断り切れずに、お定まりの前置きを口にした。
「ええ、まあ、そうですねえ。塚原さんが誠実な方だということはよく心得てますし……。あの、本当にここだけの話ということでお願いしますよ」
「もちろん、約束します。誰にも話しやしません」
「この六年間、鷺舞は美緒さんと、幼な馴染みで同い年の瑞希という娘さんの二人で舞っていたんです。本間という酒屋さんの一人娘で、うちの料理によく合う地酒を探して下さったり親同士のつきあいが深いから、自然とお二人も小さい頃から大の仲良しでした。おそろいで伸ばした髪がよく似合って、本物の姉妹そのもののように見えましたよ。ですから鷺舞も息がぴったりで、ちょっとおかしな言い方のような気もしますけど、仲の良いつがいが寄り添っているようだと評判になるほどでした」
「それで、事故というのは?」
「その瑞希さんが亡くなったんです。この三月に、鷺橋の下の川原で溺れて……」
松田はそこで言葉を切って私のグラスに冷酒を注ぐと、いくぶん声をひそめて話を続けた。
「川原で足を滑らせて流れに呑まれたのが真夜中で、川で遊ぶような季節でもないから、警察もずいぶん調べたんですよ。近くに人がいた跡はなく、遺書めいたものもないから、結局事故ということにはなったんですが……。美緒さんは寮生活に馴染めなくて体を壊したという話になっていますが、私は瑞希さんが亡くなったせいだと思っているんです」
「親友がそんなことに……。美緒さんもショックだったろうなあ。それにしても、瑞希さんの亡くなった事故というのはすっきりしませんね。あまりに不自然だ」
「そうでしょう? 事故だとしたって原因ははっきりしているのに……」
「と言うと?」
「島崎という、男の同級生ですよ。たまたま同じ大学を受けて親しくなったとかで、一度だか二度、瑞希さんとデートしたらしいんです。それだけのことなのに、そいつときたら『真面目すぎて重い』だの、些細な言葉遣いを取り上げて『思わず引いた』だのと、瑞希さんの悪口をメールで友達にばらまいたんです。
どうせふられた腹いせなんでしょうけど、最低の男でしょう? おかげで内気な瑞希さんはすっかりふさぎこんでしまって、美緒さんの話では、亡くなる直前の数日間は心ここにあらずで、食事もろくに喉を通らないような有り様だったそうなんです」
「クズとしか言いようがないな、その島崎ってやつ。話を聞いただけで胸がむかむかする」
「ひどいやつでしょう? それなのにどこまで悪運が強いのか、自分はまんまと大学に受かって、噂のほとぼりが冷めるのを待つのに好都合だとばかりに町を出ていったんですからね。まったくもう、瑞希さんにあんな仕打ちをしたんだから、罰が当たってもおかしくないのに……」
「やりきれない話だなあ」
私は瑞希がどのような思いで川の端に佇んでいたのだろうかと秘かに自問しながら、松田に勧められるままにグラスを重ねた。
喉の渇きに眠りを妨げられて、私は暗闇の中で目を覚ました。月の明かりをたよりに枕元の時計で時刻を確かめると、午前二時をまわったところだった。
私は板の間の隅に置かれている小型の冷蔵庫の中をのぞきこんで、ミネラルウォーターの小さなペットボトルを取り出すと、一気に半分ほど飲み干してから窓辺の籐椅子に腰を下ろした。
「久しぶりに飲み過ぎたな……」
そうつぶやきながら夜風に当たろうと窓を開けた時、宿の前の農道を照らす街路灯の明かりの中に、ほっそりとした女性の後ろ姿が何の前触れもなく浮かび上がった。鷺舞の衣装と同じ、白衣、白袴、白足袋の白装束……。黒々とした髪は背中に届くほど長い。
実のところ、鷺橋で願かけをしているのが美緒ではないかという考えは、瑞希の死をめぐるいきさつを聞かされて以来、時々私の頭をかすめていた。しかし、願かけに向かう美緒の姿をいざこうして目のあたりにすると、そのあまりにも一途な思いつめ方に、たまらなく胸が痛んだ。
美緒はしばらく農道を進むと川原に降りる間道に入ってゆき、こちらからはまったく姿が見えなくなった。
願かけが成就したら、島崎という男の身に何が起こるというのか? あんな人間がどうなろうと知ったことではない。しかし、その時美緒が橋姫に払わなければならない代償は……? 自分が馬鹿げた考えにとらわれていると理屈では分かっていても、白装束に身を包んだ美緒の姿が目に焼きついているような状態では、そこから抜け出すことなど私にはとてもできなかった。
さっさと眠ることだ。朝になれば、ありふれた常識が力を取り戻す。ミネラルウォーターの残りを飲み干しながら、私は自分にそう言い聞かせた。
私は一人で鷺橋の欄干の前に立っていた。美緒は下の川原で石を拾っているのだろう。支柱の上にはまだ四つしか石が載っていない。
今のうちに……。
私が急いで石を崩そうとした時、脇から伸びてきた白い手が私の手首をつかんだ。
「およしなさい」
思わず声を上げそうになるのをかろうじてこらえて声の主のほうを振り返ると、あの中年女性が険しい眼差しをこちらに向けていた。
「何も知らなかったこのあいだとはわけが違います。ただでは済みませんよ」
そう言い放った彼女の手は、氷のように冷え切っていた。
「それがあなたのために祈ってくれた人にすることなんですか?」
「だからこそです。こんな願いは叶おうが叶うまいが、美緒さんをますます傷つけるだけだ」
「よそ者が賢しら口を……」
中年女性が苛立たしげにそう言いながら、思いがけない力で私の手首を引き寄せると、私は突然足元の感覚を失い、深い闇の底へと沈みこんでいった。
我に返った時には中年女性の姿はなく、私は一人で夜の川原に立っていた。ざわざわと音をたてて流れる川の縁には、髪の長い白装束の女性が二人、肩を並べてしゃがみこんでいた。美緒と瑞希ではないかという気がしたが、私のところからは後ろ姿しか見えなかった。
願かけの石を拾おうとしているのか……。そんなことを考えながら私は二人に近づこうとしたが、足を踏み出すことも、声を出すこともできなかった。麻痺のある指が冷たくなってきているような気がして指先を確かめると、あの中年女性に手首をつかまれたせいか、薬指と小指はすっかり血の気を失って、蝋燭が二本並んでいるかのように見えた。
突然、白装束の二人は手をつないで立ち上がると、ためらう素振りもなく川の流れに身を投げた。と、その姿は二羽の白鷺に変わり、ゆっくりと川原に舞い降りた。
白鷺たちは翼をひろげたまま大きく胸をそらすと、その長い首と首をからみ合わせては体を反転させる奇妙な動きを、いつまでも飽きることなく繰り返していた。
翌朝、松田が床を上げに来た時にはすでにかなり日が高くなっていたが、私は頭が重くて床を離れることができなかった。もう少し眠らせて欲しいとやっとの思いで返事をすると、私は白鷺が乱舞する奇怪な夢の中を再びさまよい続けた。
タイヤが軋るかん高い音に続いて、ぐしゃりという、金属の塊が壁にたたきつけられるような衝撃音が窓から飛びこんできて、私は眠りを破られた。
周囲に手を貸してくれるように呼びかけたり、通報が済んだかどうかを確かめようとする慌ただしいやり取りの声がその後に続き、私は交通事故が起こったのだと確信した。しかも、声が聞こえてくる方角から考えて、事故の現場は鷺橋に違いなかった。程なく、パトカーと救急車のサイレンが重なり合いながら、宿の前の道を通り抜けて鷺橋に近づいていった。
私は床の中で一連の騒動に耳を傾けていたが、救急車が再びサイレンを鳴らして走り去ったのを境に現場のざわめきが収まり始めると、言いようのない疲労を感じて目を閉じた。
夢を見ることもなく、ただひたすら眠りを貪った私は、松田に部屋の外から軽く声をかけられただけで完全に目を覚ました。
「お昼は召し上がりますよね」
「お願いします。ぐうたら寝ていただけなのにすっかり腹ぺこだ。我ながらちょっと呆れますね」
「健康な証拠ですよ。それはそうと、さっき鷺橋で交通事故があったのはご存じでしたか?」
「ええ、窓を開けっぱなしにしていたから、物音も人の声もかなりはっきりと聞こえましたよ」
「それで、誰が事故に遭ったと思います?」
「昨日僕らが噂していた、島崎という男ですか?」
「いったいどうしてそれを? そんなことまで聞こえたんですか?」
と、松田は目を丸くして叫んだ。
「いや、なんとなくそんな気がしただけですよ。それより、どんな事故だったのか詳しく聞かせてもらえませんか」
情報通の松田は、わずかな時間で驚くほど多くの事を聞きこんできていた。島崎は大学が夏休みに入ったので帰省して、自動車の免許を取ろうとバイクで教習所通いをしていた。そして今日、いつものように鷺橋を渡っていた時、欄干の上に積み上げられていた願かけの石が崩れてバイクの前輪に当たり、ハンドルを取られて転倒した島崎は、頭を激しく打って即死した。暑いからといってヘルメットを被らずにバイクに乗っていたことも、致命傷を負う一因になったのだった。願かけの石が崩れた時、欄干から白鷺が飛び立つのを見たと話している人もいた……。
「まるで橋姫様から罰を受けたかのようですね」
「ええ。もちろん大きな声では言えやしませんけど、これまでのいきさつを知っている者は、みんな心の中でそう思ってますよ」
「話は変わりますけど、美緒さんは今どちらに?」
「それが、朝から誰も姿を見ていないんです。黙って遠出をするような方ではないし、みんな心配しているんですが」
まさかとは思うが、あの時出ていったまま戻っていないのか?
私は胸騒ぎを覚えながら松田に尋ねた。
「誰も行き先に心当たりがないんですね」
「ええ。お友達のところに行くような時間でもありませんでしたし……」
「そりゃ心配だな。僕も食事を済ませたら、ちょっと外を見てまわってきますよ」
「いえ、お客様にそこまで甘えるわけには」
「こちらが勝手にやることなんだから、気にしないでください。美緒さんが事故の事を知ってショックを受けているんじゃないかと思うと、何だか落ち着かないんですよ。と言っても、土地勘のない人間がそこらを歩いたところで、単なる気休めでしかないんですが」
「そんなことはありません。気にかけていただいて本当に有り難いですよ。私どもはいくら心配でも、今日明日はお祭りで仕出しの注文が多くて、とても外には出られませんから」
松田は布団を上げながらそう答えると、すぐ昼食の膳を持ってくるからと言い残して部屋を出ていった。
昼食の後で、私は鮎川沿いの農道を上流に向かって歩いてゆき、鷺橋の二本先の橋を渡って川の反対側の道を戻ってきた。結局、川原で十人余りの釣り人を見かけ、五人ほどの老人と路上ですれ違っただけで、美緒を見つけることはできなかった。
私は水分神社の側から鷺橋を渡った。事故の現場はもうすっかり片づいていて、欄干に立てかけるように置かれた小さな花束と、犠牲者とバイクが倒れていた位置を表すチョークの跡だけが、ここで事故が起こった事を道行く人々に伝えていた。
私は願かけの石がたとえ一つでも残っていないかとあたりを見まわしたが、さすがに事故の元凶がそのまま放置されているはずはなく、それらしい石はまったく見当たらなかった。
鷺橋の下の川原では、神輿を川の水につける『川入り』という神事がまもなく始まろうとしていた。私は神事を間近で見るために、農道の脇の間道から川原に降りることにした。
橋の周囲の斜面は土砂崩れを防ぐためにコンクリートで固められていたが、橋の真下の一番低い部分だけは、高さ二メートル、幅四メートルは優にある白みがかった大岩が、何の手も加えられずにそのまま残されていた。美緒が話していた、古代の儀式が行なわれていた場所というのはここではないかと私は考えた。
昨日神社の境内で見た大小二基の神輿がこの大岩の前に置かれ、御神酒が入った一対の白い瓶子、白桃、黄色いまくわ瓜などが、簡素な祭壇に供えられていた。烏帽子をつけ、赤紫の地に金色の文様が入った狩衣を着た宮司は、祭壇の前で御幣を左右に振り、豊かな水の恵みと水害除けを祈願する祝詞を唱えた。
宮司は祝詞を唱え終わると御幣を手にして川のほとりに進んでゆき、瓶子を捧げ持った氏子の代表らしい老人と、二基の神輿を担いだ氏子たちがその後に続いた。宮司にうながされて老人が御神酒を川に注ぐと、大人たちが大きいほうの神輿を担いだまま川の中に入っていって、肩まで水がくる場所で身を屈めて神輿を水につけた。子供神輿のほうは川辺で子供たちに担がれた状態のままで、世話役の老人たちが木の手桶で川の水を浴びせかけている。
「セイヤ、セイヤ」という担ぎ手たちの威勢のいいかけ声が響き渡る中、金色の鳳凰を屋根の上に頂いた二基の神輿は、川の水を滴らせながら、夏の日射しを浴びてまばゆく輝いた。
『川入り』の見物を切り上げて宿に戻ると、玄関口で松田が足早に近づいてきた。
「お帰りなさいませ。つい先ほど美緒さんから電話がありました」
「そりゃよかった。で、今どちらに?」
「水分神社です。鷺舞に出していただくことになったので、これから支度するそうです」
「もう支度を? 鷺舞は八時からでしたよね」
「ええ。美緒さんのほうからもう舞には出ないとお断りしていたのに、当日になって急にお願いしたから、何か特別な準備がいるのかもしれません。私は氏子ではないもので、詳しいことは分かりませんが」
「とにかく、僕としてはうれしい限りですよ。すっかりあきらめていたのに、美緒さんの舞うところを見られると言うんだから」
「ええ、どうかお楽しみに」
「そうそう、夕食を少し早めに用意していただくわけにはいきませんか?」
「大丈夫です。今日のお客様はほとんどの方が鷺舞をご覧になるはずなので、もともとそのつもりで支度を始めていますから」
「よかった。じゃ、よろしくお願いします」
「かしこまりました。では、後ほど」
松田はにこやかに微笑みながらお辞儀をすると、軽い足取りで帳場に戻っていった。
時刻が五時を過ぎた頃、にぎやかな祭り囃子が次第に近づいてくるのを耳にした私は、部屋の窓から身を乗り出して、幼稚園児くらいの年格好の子供たちの行列が山車を引いてゆくところを見物した。
山車に乗っているのは摺鉦を手にした女の子二人と、大太鼓役の老人、そして笛を吹いているさらに年輩の老人の四人で、他の子供たちと世話役の大人たちは紅白の太い綱で山車を引いていた。女の子は山車の上の二人も他の子も天冠、狩衣、袴の稚児装束で、顔も入念に化粧が施されているが、男の子は法被に白いショートパンツという軽装で、顔も鼻筋を白粉で白く塗っただけだった。
私はふと、以前新聞の朝刊に載っていた巫女の埴輪の写真のことを思い出した。六世紀頃作られたものだというが、その顔は目の下から頬にかけて赤く帯のように塗られていて、魔除けのためにベンガラで『赤化粧』を施した顔なのだと説明されていた。あの大岩の前で古代の儀式が行われた時、巫女の顔にはどのような化粧が施されていたのだろうか?
氏子でなくても鷺舞を見ようとする人は多く、水分神社の境内は七時頃からすでに混雑し始めていた。入口の鳥居の左右の路上には、その人出を当てこんで、綿菓子、焼きとうもろこし、ヨーヨー釣り、紐引きくじなど、祭りにつきものの様々な露店が軒を並べていた。
のんびり構え過ぎて七時半を過ぎてから境内に着いたせいで、私はなかなかいい見物場所を見つけられずに人ごみの中を歩き回ったが、なんとか水盤舎の脇に舞台がよく見える場所を見つけてひと息ついた。
舞台と拝殿の間を埋めるように、二基の神輿と山車が置かれていた。舞台に気を取られた見物人が神様に背を向けて立つことがないようにという配慮だろう。
電灯の類の強い照明はなく、舞台を照らしているのは四方に立てられた篝火と、本殿の背後に立ち並んだ楠の梢から差しこむ満月の光だけだった。まだ舞い手の姿はないが、お囃子を受け持つ人々はすでに舞台の両脇に坐っていて、鉦、太鼓、笛の音が織りなすにぎやかな調べが、見物人たちの心を浮き立たせた。
八時になるとお囃子がぴたりと止み、社務所から宮司の先導で三人の舞い手が現れた。一番前にいるのが美緒で、昨日の通し稽古に出ていた二人の女子中学生がその後に続いた。宮司は舞台に上る階段の前まで来るとうつむき加減で脇に控えて、舞い手の三人だけがゆっくりと階段を上り始めた。美緒が話していた通りの、一段ごとに両足を揃える独特な上り方だった。女子中学生たちは白粉と口紅でうっすらと化粧しているのに、なぜか美緒だけは素顔のままだったが、その顔はいつにも増して白く見えた。後ろでひとつに束ねた髪は水に濡れているらしく、私は彼女が鷺舞に出るために水垢離を取ったのではないかと考えた。
三人の舞い手が正三角形を描く位置に立ってその中心へと向き直ると、お囃子の人々は先程までの曲よりもゆるやかで、優雅さを備えた曲を演奏し始めた。
舞い手たちの足先が左へ、右へ、お囃子の音とともに滑らかに運ばれてゆく。と、ふいに翼をひろげようとするかのように両腕が上がり、舞い手たちはその場でくるりと回転した。美緒の足の運びには何の迷いもなく、邪気を払う力があるとされるのにふさわしいものだった。美緒という導き手のおかげで、経験の浅い二人の動きも、時間とともに見違えるほど滑らかになっていった。
絶え間なくゆらめく篝火の明かりの中で交錯する舞い手たちの姿を追っているうちに、私はいつしか昨夜の夢の続きを見ているかのような錯覚にとらわれ始めていた。
十五分ほどで鷺舞が終わってお囃子の音が止むと、見物人たちが漏らす、ほうっというため息がそこかしこから聞こえてきた。拍手をしようとする者が一人もいないので、神様に奉納する舞だから拍手をしてはいけないという決まりでもあるのかと周囲の様子をうかがっていると、ようやく我に返った数人が拍手を始め、瞬く間にそれが境内中に広がっていった。
「見事に舞われましたねえ、『鮎川』のお嬢さん」
知人などいるはずのない場所で不意に声をかけられて、人違いではないのかといぶかしみながら振り向くと、いつの間に近づいてきていたのか、先日鷺橋で会ったあの中年女性が目の前に立っていた。夏草を白く染め抜いた紺の浴衣を着て穏やかに微笑んでいる表情からは、夢の中で私を睨みつけた時の、人を瞬時に凍りつかせてしまうような凄味は感じられなかった。
「少しばかり日本舞踊を習っておりますので、師匠筋の先生方の公演にはよくうかがうんですが、あれだけの舞にはめったにお目にかかりません。上手下手ではなくて、何て言うか、無心の舞なんでしょうね……。こちらの神様もきっとお喜びでしょう。本当に、今日はすばらしいものを拝見いたしました。ただ……」
「どうかなさったんですか?」
と、私は彼女が何事か言い淀んでいるのを見て取って尋ねた。
「宿にお泊まりのお客様に申し上げるのもおかしな話なんですけれど、あのような舞の後なものですから……。お嬢さんの事、どうか気をつけてあげてくださいね。『神が愛でるものは、魔も愛でる』と申しますので」
中年女性はそう言って軽くお辞儀をすると、言葉の意味を量りかねている私をそのままにして、神社の出口に向かって動き始めた人波にまぎれて姿を消した。
『鮎川』に戻った私は、板の間の籐椅子に腰を下ろしたまま、鷺橋を行き交う人々の姿を窓からぼんやりと眺めていた。舞い手とお囃子の人々は社務所で会食してから解散するという話だったが、会食が始まってから一時間が過ぎようとしているので、酒飲みの男衆はともかく、若い女性たちはまもなく席を立つだろう。
しばらく前から川風が笛の音を運んで来ていた。今日の祭りで演奏されていたお囃子とはまったく別の、技巧を凝らした独奏曲だった。会食の席で興に乗った笛の吹き手が腕前を披露しているのだろうか。満月はかなり高く上り、鷺橋の上にさしかかっている。
私はふいに、子供の頃夜になってから玩具の笛を吹いて、迷信深い祖母に『蛇が寄ってくる』と言って叱られたことを思い出した。
『神が愛でるものは、魔も愛でる』か……
そんな事を考えながら、散歩がてらに水分神社まで美緒を迎えに行こうと立ち上がりかけた時、私は白い影が鷺橋の欄干を乗り越えようとしている事に気がついた。暗い上に距離があって顔は見分けられないが、白装束でこんな事をしようとする者は、美緒以外に考えられない。
「飛び降りだ! 鷺橋から誰か飛び降りる!」
私はありたけの声でそう叫びながら部屋を走り出た。
何て間抜けなんだ、俺は! 気をつけるようにと、あの人にも言われていたのに……。私は自分に悪態をつきながら農道を走り続けた。後ろを振り返る余裕はないが、何人か後を追ってきているようだった。
「美緒さん、待て、やめるんだ!」
右手の薬指と小指が氷のように冷たくなってゆくのを感じながら私がそう叫ぶと、美緒は声を聞きつけたらしく、その青ざめた顔をゆっくりとこちらに向けた。
「待ってくれ! すぐ行くから……」
私はもう一度美緒に声をかけたが、彼女は穏やかに微笑みながらまるで舞を続けているかのような仕草で首を横に振ると、何のためらいも見せずに身を虚空に躍らせた。
「拝啓 虫の音が日毎に細り、冬の訪れを予感させる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか? 別便にて落ち鮎の甘露煮をお送りさせていただきました。当方にお泊まりの折に召し上がっていただいたものとはまた違った味をお楽しみいただけるものと存じます。どうかご笑納くださいませ。
さて、美緒の近況でございますが、傷もほとんど癒え、ほどなく大学に戻れる見通しとなりました。これも塚原様がいち早く駆けつけてくださったお蔭と、重ね重ね御礼申し上げるばかりでございます。
この頃は美緒もかなり長い時間話をすることができるようになったのですが、帰省してから怪我をするまでのことは、相変わらずほとんど思い出すことができずにおります。助けていただいておきながら、塚原様のことを覚えていないなどと申し上げるのは心苦しい限りなのですが、お医者様のお話では、頭に強い衝撃を受けた患者には時折見られる症状とのこと、なにとぞご容赦くださいませ。
いっそのこと、あの出来事はこのまま忘れてしまったほうが本人のためなのではないか。それが美緒の命を救ってくださった神様の思し召しなのではないか。愚かな親の身といたしましては、そんな思いを拭い去ることができずに、余計な話が娘の耳に入る前に復学させたいと、そればかりを考えて気を揉む毎日でございます。
美緒の近況をお知らせするつもりが、いつの間にか世迷い言を書き連ねてしまいました。不躾な乱文の段、お詫び申し上げます。
塚原様のまたのご来訪を館主ともども心よりお待ち申し上げております。季節がめぐり、鮎漁が解禁されましたら、鮎づくしのコースの再開をあらためてご案内させていただきたく存じます。
末筆ながら、お風邪など召しませぬようくれぐれもご自愛くださいませ。
かしこ」
一人暮らしのワンルームマンションで『鮎川』の女将からの手紙に目を通していた私は、読み終えた手紙をテーブルの上に置いてソファにもたれこんだ。残業で帰宅が遅かったので、時刻はすでに午前一時をまわっている。
あれは自殺などではない。美緒は願をかけた時に誓った通りに、身を神に委ねただけなのだ。そして、女将が言うように、「すべてを忘れて生きよ」というのが神の答えだった。
美緒は川に落ちた衝撃で気を失ったせいで、かえってほとんど水を飲むこともなく水面を漂っていて、川原に駆けつけた私たち三人の男が彼女を助け上げるのはごくたやすいことだった。
『神が愛でる者』か……。
私は欄干の外側に立っていた美緒の姿をあらためて思い描いた。白装束で鷺橋から身を躍らせた彼女は、翼をひろげて水面に舞い降りようとしている白鷺に化したかのようだった。
美緒が今回の事件の記憶を失ったのは、確かに好ましい事に違いない。ただ、私の胸に刻まれた彼女の印象は余りにも鮮烈で、その当人に自分のほうは完全に忘れ去られてしまったのだと考えると、寂しさを感じないではいられなかった。
この指が治るようにと祈ってくれたことも、もう憶えてはいないのだろうか……。
そんな思いが脳裏をよぎるのと同時に、拝殿の前で私の右手を包みこんでいた美緒の掌の柔らかな感触がまざまざと甦ってきた。彼女の手の温もりが麻痺した二本の指にまで伝わってきているような気がして指先に目を移すと、いつになく赤味を帯びた薬指と小指が微かに、しかしはっきりと動いた。
実際の地名が使われていますが、作品中の習俗、登場人物等、すべてフィクションです。