第一章 16 宿屋の風呂(その3)
16 宿屋の風呂(その3)
「そろそろ体洗うか」
マアチが湯船を出て洗い場に向かう。
「そうだね、あったまったし」
ミーヤも後に続くが、歩いている途中で、「あっ」とうめく。
「大丈夫か? ……ああ、オレが流しといてやるよ。ミーヤはシャワーんとこ行ってな」
風呂湯の中では経血は出ないが、湯から出たことと、立ち上がって姿勢が変わったことで、経血が一気に出たのだ。
「ありがとう」
ミーヤはシャワーを手に取り、体についた血を落とす。
マアチは風呂桶で湯船から湯を汲み、洗い場のタイルに落ちた経血に掛ける。汚水分離液である風呂湯の作用で、経血は固形になり、すべて排水溝に流れていった。
「ごめんね」
出血が落ち着き、体を流し終えたミーヤが振り返って言う。
「いいって。オレは終わりかけだからもうドバッと出たりしねーし。それにしても、汚水分離液ってほんとに便利だな」
床に血が残っていないか確認し、マアチも蛇口の所まで行く。
「固まるから、流し残しが無いのがいいよね。家のお風呂は普通のお湯だったから、一回じゃ血が残ってるかもって何度も床にお湯掛けてたけど、汚水分離液だと一回で済むもんね。家に帰る時が来たら、自分が生理の時だけ、お風呂を汚水分離液にしようかな」
ミーヤは父と二人暮らしなので、風呂の準備も掃除も自分でしている。
「そんな高いもんじゃないよな? 洗剤売り場にあった気がするし。オレも帰る日があったら母ちゃんに頼んどくかな」
マアチの両親は健在なので、母親が風呂の管理をしている。
「ていうか、汚れが分離するんなら、洗濯にも使えるんじゃね? ソースがはねた染みとかも、『生物由来の汚れ』だろ?」
「あっそれ駄目なんだって! 木綿の布とか、人間の目には大きく見えるけど、植物の小さな繊維を人間が組み合わせただけでしょ? だから、『生物の小さなかけら』って判断されて、繊維にブヨブヨが絡んじゃう可能性があるって。
昔、買い物に行ったときに父さんが言ってた。汚水分離液はそこまで完璧じゃないって。何を『汚れ』と判断するか難しいんだとか。生物由来でも、何度も加工したり混ぜたりした薬品とかは判断不能らしいし、生物関係無いゴミは分離出来ないし。だから、汚水分離液を使っても、飲めるほど綺麗な水にはならないんだって。だから汚水分離液は買ったことがなかったんだ」
「そっか。流石にミーヤの父ちゃんは水屋だから詳しいな。それに、汚水分離液で水が完璧に綺麗になるんなら、水屋が要らなくなるもんな」
「うん。昔は、お風呂の残り湯を洗濯やトイレの水に再利用することもあったらしいけど、今は『圧縮タンク』が普及してるからね。上水も下水も、何日分もため込めるし、下水は再利用じゃなく、下水屋に頼んで丸ごと浄化してもらうのが一般的になったんだって」
圧縮タンク。精霊が『水圧縮の魔法』を込めて作ったタンクだ。ミーヤは続ける。
「『廃水浄化の魔法』は、廃水をその場から消して世界に還元するから高度な魔法で、それを固めた『廃水浄化剤』も高い。でも『汚水分離の魔法』は、一部の汚れを分離するだけだから、それを洗剤にした『汚水分離液』もそんなに高くない。でも結局、掃除がちょっと楽になるだけだ、って父さんは言ってたよ」
「なるほどな。じゃあ、宿屋で風呂掃除に使われるぐらいなのかな。あ、皿洗いにも使われてんのかな?」
「うちは皿洗いも魔法関係無い洗剤でやってたよ。父さんがそれしか買ってくれなかったもん。料理って、食材を混ぜたり加熱したりするから、汚水分離液がうまく反応しないんじゃない? あと、木製の食器とかは駄目そうだし」
ミーヤは家にいるときは皿洗いも自分でしていた。
「ああ、木って生物だもんな。小さくはないけど、ささくれとかあったら駄目かもな。この椅子みたいにがっちりコーティングしてあればいいんだろうけど」
マアチは風呂椅子に目をやる。ミーヤもシャワーを使いながら風呂椅子を見る。木製だが、コーティングのおかげで、泡も経血も染みこまずに排水溝に流れていく。
「風呂掃除ぐらいって言っても、こんな大きなお風呂なら掃除も大変だろうし、それが楽になるならありがたいよね」
「だよな。宿の人も言ってたっけ、湯船に落ちた蛾とかは人の手で取り除かなきゃならないって。虫って何で勝手に飛び込んできて死ぬんだろうな? 今はいなくて良かったけど」
マアチが湯船を振り返る。
「でも、蛾の本体さえ片付ければ、蛾の鱗粉とかは『生物の小さなかけら』だから、汚水分離液が効くんだってね。鱗粉はブヨブヨのゴミになって、風呂のお湯は浄化されるって。ゴミは私達でも簡単に排水溝に流せるし、気持ち悪くなくていいよね」
「人間から出る汚れもな。家と違って人がたくさん出入りする風呂だから、汚れは勝手に固まって風呂湯は綺麗なまま、ってのはマジで便利な魔法だと思うぜ」
「決めた。家に帰る時は、汚水分離液を買っとこう。こんな便利な物があるなら、使わなきゃもったいない」
「はは、旅ってほんと、新たな発見があるよな」
二人は会話をしながら体を洗い終わった。




