第一章 10 トイレの構造
10 トイレの構造
ここは宿屋の三階。トイレと洗面所は共用で、階の左奥にある。ミーヤは302と書かれた、木製の番号札の付いた鍵で部屋を施錠する。トイレに行くわずかな時間とは言え、部屋を無人で開け放しておくと、泥棒に入られる可能性があるからだ。
この宿は、各階に二つずつ女子トイレがあった。
「おう、お先」
トイレに向かうミーヤに、トイレから帰ってくるマアチが声をかける。
「ミーヤも洗いに行くか?」
マアチも手に防水袋を持っている。
「ううん、寝る」
「痛いときに洗いたくねえよな。じゃあ、ゆっくりな」
マアチは苦笑して去っていった。
トイレも洗濯も、水を多く使う。
各建物には、上水タンクと下水タンクがある。上水タンクは、詳しく分けると二種類ある。洗面所や台所など、口に入る水用の上水タンクと、トイレや風呂、洗濯など、飲まない水用の上水タンクだ。後者は中水タンクとも呼ばれる。
口に入る水用の上水タンクには、水質を計るメーターが付いている。水屋が手抜きをして汚い水を出したらすぐわかるようにだ。中水タンクには、メーターがない場合もある。飲用でないし、見た目や臭いが綺麗ならそれで十分、ということだ。
「だが、中水タンクであっても、飲めるレベルの水を出すつもりでやる方がいい。その方が自分の鍛錬になる。高級な施設に中水タンクはない。トイレも風呂も、メーター付きの上水タンクの水を使うんだ。だから、そういう施設の仕事もできるように、普段から自分の魔法を磨いておくんだ」
水屋をしているミーヤの父は、よくそう言っていた。
ミーヤはトイレの個室に入る。
個室の中には陶器でできた腰掛のような便器がある。便器の上部には、金属の管でつながったトイレ用のタンクがある。ここには上水タンク(中水タンク)からの水が、トイレ一回分溜まっている。
トイレタンクからはゴム管も伸びている。用を足した後、体を洗う水を出すための管だ。だから金属ではなく、動かしやすいゴムで出来ている。
便器の横に消毒液の溜まった容器があり、ゴム管の先端が浸かっている。便器に座って用を足した後、ゴム管を手に取り、体用、と書かれたレバーを引くと、水が出る。水は便器内に流すようにして、体を洗う。
個室内には、トイレットペーパーも設置されている。手より大きいぐらいの四角い紙が何枚も箱に入っているので、体を拭いて便器内に落とす。
最後に、便器用、と書かれたレバーを引くと、トイレタンクの水が便器内の物を下水に押し流す仕組みだ。
「今は紙だけにしよ」
つぶやきながら、ミーヤは壁のフックに防水袋をかけた。親切なトイレには、手荷物をかけるためのフックがある。不便なトイレでは手に持つしかない。
ゴム管は、使う人も使わない人もいる。体を水で洗うのは、夏はいいが、冬はちょっと冷たい。温水が出るトイレもあるが、安宿のトイレは常温の水しか出ない。今は春で寒くはないが、トイレ内の手間は一つでも省きたい。
流れていった物は、下水タンクに溜まる。
下水タンクは、『廃水浄化の魔法』で処理する。排泄物や老廃物、食べかすなどが溶けた水を浄化し、蒸発させる魔法だ。廃水は消え去ったように見えるが、世界のエネルギーとして還元されたのだ。誰かが魔法を使えば、火や水など、再度、目に見える形となって現れる。
水屋が上水タンクに水を満たすように、下水屋が下水タンクを空にする。
『廃水浄化の魔法』は難しく、習得に時間がかかる。そして大きなタンクを空にするにはさらに鍛錬がいる。だから精霊の力で『廃水浄化の魔法』を石鹸のように固めた、『廃水浄化剤』というアイテムがある。下水屋はアイテムを補助的に使いながら、各建物の下水タンクを綺麗にしていく。
「水屋も下水屋も、大切な仕事だ」
父は、ミーヤに何度も語った。
「『水屋』のことをわざわざ『上水屋』とは言わない。飲み水、洗い水はよく使うし、見つめても不快ではない。だから『水』が『上水』を指す言葉になっているんだ。
下水は汚いから、好んで見つめる人はいない。目の前から流し去るので、その後を考えない人も多いんだろう。だから必要なときだけ、普段目にする『水』とは違う、『下水』と呼んで区別するんだ。
水に関する仕事、と言えば、普通は『水屋』を連想する。
だが、仕事に上下はない。
『水屋』も『下水屋』も、人間の生活を支える大切な仕事だ。
水を出す魔法は、魔物との戦闘で使える。『魔法水筒』に飲み水を満たすのも、旅には欠かせない。だから水の魔法を習得している人は多い。
父さんも、『水屋』になるつもりで水の魔法を習得していたわけじゃない。
だが、水の魔法がある程度使えるからこそ、『水屋』になる大変さがわかる。綺麗な水を上水タンクいっぱいに出さなきゃいけないからな。
下水タンクは、『廃水浄化剤』を買えば、魔法が使えなくても空に出来る。
『廃水浄化の魔法』や、汚れを移動させる『移動浄の魔法』は、魔物退治の役には立たない。浄化に関係する魔法は普通、清掃関係の仕事をする人しか習得しない。
だから、大変さが理解されないのかもしれないな。
上水タンクが空では困るが、下水タンクは、いざとなれば『廃水浄化剤』を買えばいいんだし、と『下水屋』は軽く見られがちだ。汚れ物に関わる仕事だから、『下水屋』自体も汚いと言われることもあるそうだ。
だが、汚い物を処理するのは立派な仕事だ。汚い物があふれないように、見えないところで人々の生活を支える立派な仕事だ
水がないと人は生きていけない。だから『水屋』は頼りにされる。だが『下水屋』だって、いなければ下水があふれ、やがて病気が流行るだろう。
上水と下水はセットだ。両方あって初めて人の生活が機能する。水を使うとき、下水を処理してくれる人への感謝の気持ちを忘れてはいけないぞ」
父がこのように話すたび、ミーヤはうなずいて聞いた。
最近の父は酒ばかり飲んでいるので、こういう会話も無くなったが。
「仕事の後で飲んでるから駄目とは言えないけど、ちょっと飲み過ぎじゃないのかな……」
ミーヤはぼやきながらショーツを下ろして便器に腰掛けた。
ナプキンを取り替え、用を済ませる。
ミーヤは防水袋を部屋に持ち帰り、ベッドに横たわった。




