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タイトル未定2024/04/06 19:40

 学校の帰り道、クラブで帰りが遅くなった。僕は途中でお兄ちゃんに捕まった。何でも、家のガス給湯器が故障してお湯が出なくなってしまった、だから今日のお風呂は銭湯で、とのこと。お母ちゃんとお姉ちゃんは午後から大須の寄席に行っていて、やっぱり風呂と夕食は別のところで済ませる、お父ちゃんはどこかのサウナ付きのカプセルホテルに泊まるらしい。対して僕らはこれから今池まで行く、しかも歩いて‥‥‥クラブ活動で疲れていた僕は呆然とした。お兄ちゃんは「ああ、嫌なら水風呂でも冷水シャワーでもええぞ」と言ってにやりとした。とんでもない。今は桜が満開で、四月の上旬、けれどこの時期に桜が盛りだなんて、今年は春が遅かったという証拠だし、実際今日は寒い。風も冷たい。「ほだろ、諦めなかん。ほんじゃ行くか」とお兄ちゃん。僕は泣く泣くついて行った。

 銭湯は、今池の繁華街から少し離れたところにあるビルの五階、ちなみに一階はパチンコ屋(と言うかスロット屋)、二階から四階は麻雀屋とかビリヤード場とか、その他いかにも大人用のものばっかり、いかがわしいとまでは言わないにしても、あまり夜小学生が行くようなところではない。僕はここのことを『銭湯』と呼んでいるけれど、広い脱衣所、休憩スペース、大きな浴場には浴槽がいくつもあって、種類も炭酸泉、ジェット風呂、なんちゃって露天風呂等々とても豊富、だから頭にスーパーを付けてもいいくらいだ。たださすがに下町の入浴施設だけあって、ここの利用客は仕事帰りの労務者風のおにいさん、おじさん達が多い、だからこわいこわい。勿論僕は常にお兄ちゃんのそばにくっついていた。お兄ちゃんは大学生だけど、ちょっと尋常じゃない程背が高い。細く見えるけど中学高校の水泳部で鍛えた体は頑丈で強そうだ。こういう時には頼りになる。けれどお兄ちゃんは長風呂だから、付き合っているうちに僕の方はあったまり過ぎて、すっかりふらふらになってしまった。それでお風呂から出ると、休憩室でお兄ちゃんがビールを買う時一緒にジュースを買ってもらって、背もたれのある椅子に座って一息ついた。お兄ちゃんも上機嫌で、ビールを飲みながらくつろいでいた。結局三十分くらい休んでいたものだから、何とか僕の体も復活できました。

 夕飯も外で、ということだったから銭湯を出るとそのまま場末の中華料理屋さんへ行った。安くて量がたっぷりある、よく言えば庶民的な店、だからこの時間客層はご推察の通り、やっぱり労務者風のおじさん達やサラリーマン風のおじさん達、それからこれからお仕事であろうと思われるお化粧の濃いおねえさんやおばさん、バイト帰りの大学生の男女、とまあ、か弱い小学生にとっては恐ろし気な場所なんだ。カウンターに座った僕はまたもやお兄ちゃんを頼りにした。その巨大な姿は店内でもひと際目立ち、十分異彩を放っていた。ただ座っているだけで周りから畏怖されるなんて、得な人間だ。でもまあ、そのお陰で僕は安心なんだけど。文字通りお兄ちゃんの陰に隠れて、僕は小さくなっていた。

 食事を終えて店を出る頃には、お兄ちゃんはすっかりいい気分になっていた。怪しからんことに、お兄ちゃんはここでもビールを飲んでいたんだ。そのため頭の中もすっかり春になってしまったお兄ちゃんは、夜桜見物でもしながら帰ろうかと言いだした。またそんな道草を、身体が冷えちゃうよ、でもいいや、たまにはそんな風流も。ということで僕らはそのまま広小路通りと錦通りを越して、水道みちの方へと出かけて行った。


       *    *    *    *    *    *    *    *


 今池から水道みちに入って始めに一本、並木から少し離れて立っている桜がある。電線の関係で枝が随分切られてしまっていて残念だけど、その孤独な姿が格好良く『一人さくら』と呼ばれている。命名者は何を隠そううちのお姉ちゃんでこの命名はなかなか好評だった。お兄ちゃんもセンスがあるとほめていたけれど、一言多いお兄ちゃんは『きっとあの菓子屋の有名な干菓子の名前をもじったんだろぉ。食いしん坊のお前らしいわ』とやってお姉ちゃんを怒らせていたっけ。そんなことまるで覚えていないみたいに、お兄ちゃんは「おお、一人さくらか、絶景々々」と間抜けなことを言いながら楽し気にその傍らを通り過ぎて行く。折角の夜桜なんだけど、今日は随分寒いし平日でもあるし、人通りはあまりなかった。暫く行くと名前も知らない常緑樹が道路沿いに三本と歩道の中央に一本、これらの向こうに桜並木が見えた。満開の桜の連なりが夜目にも白々と浮かび上がっていた。

 僕らはその下をゆっくりと歩いた。お兄ちゃんは酔いにまかせてはしゃぎながら、僕は黙って歩いて行った。相変わらず人通りはほとんどなく、脇の一方通行の車道を通る車もなくひっそりとしていた。

 気が付くと、いつの間にかお兄ちゃんは静かになっていた。一応桜を見上げながら歩いているようだけれど、全然喋らなくなった。僕はもともと黙っていたので、そのまま黙っていた。そうやって二人で歩いて行った。

 暫くそうしていたんだけれど、僕は何となくその沈黙が嫌になった、と言うか不安になってきた。それでお兄ちゃんに静かだね、と話しかけた。

 「ああ、桜のあの繁ったあたり、花の密集しとるあのあたり、ああいうとこがしんとしてござるて。そのしんとしたのが上から黙って降って来よる。ほらぁ、静かだわ。」

 寒いね、と僕はまた話しかけた。

 「今日はちょこっと冷えるでなあ、おまけにここいらの風景が、樹の幹や枝は黒々としとるし、花は白い月の光みたいに白々としとるで寒々と見える、余計だわ。」

 桜の花って白かったんだ、と僕。

 「こういう夜はな、何か知らん、白いんだわ。ほいで雨が降って濡れると桜色に染まる。何でかは分からんけどな。だで普段俺らが思い浮かべる桜ってのは濡れとるやつなんだ。つまり俺らは桜と言うと、良く晴れた空を背景に、しっぽり濡れた桜の花を思い浮かべるということになる。それにしても」とお兄ちゃん、「桜ってのはあんなにぼたぼたと咲くもんだったんか?」

 僕は目を見張った。確かにその通りだ。桜の樹は、沢山の細い枝の先っぽのほうに小さな花を幾つもまとめて咲かせていて、そのそれぞれの集まりが丸い玉の様になっている。それらが街灯に照らされて球形に浮かび上がり―――確かにぼたぼたと咲いていたのだ。

 本当にそうだね、と僕は言った。そうして二人してぶるっと一つ怖気を震ってしまった。

 意気地なしの二人組は夜桜見物もそこそこに、早足で家路をたどることになった。頭上で静かに光っている、無数のぼんぼりの光に怯えながら。

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