世界への最終問題
さて、断絶がなくなった。
でも、何も変わってないよ。
なぜなら、やっていることは同じだからだ。対象が意志や無意識になったとはいえ、複数のものが重なり合っていることと、その反転の重なり合っていないことを並在させた状態を作り出していることに変わりはない。その規模をいくら拡げようが、その先にはフラクタル構造のように同じものしか待っていない。今ある何かをいくら進展させたところで何かが変わる訳はない。
この世界に存在しない性質を孕んだ「何か」を作らなければ。
この世界は、その根本的な性質にそもそもの問題がある。この世界に存在するものは、すべてその性質に則って存在している。これを新たな段階に持っていきたいならば、この世界には存在しない何かを作らなければならない。全てを超えるには、「全てを超えた何か」が必要である。全てを超えたものは存在していない。よって、全てを超えた何かは、新たに作るものである。もしこの世界を超えた世界が存在していたとしても、その世界は、存在しないところから自ら「作り出す」という方法でなくては拓けない。
我々が物語を読む時、物語の世界や何らかのイメージといったものを読者自身が認識する視点や、読者が作中の人物などに入り込む視点が存在する。しかし、どちらも自分自身の視点であるということに変わりはない。自分の視点が対象を認識する、というこの関係は、物語に限らず、この世界の性質を象徴する構造である。あらゆるものが「対象」として認識される。つまり、存在している。「存在する」こととは、すべて、その存在以外のものの存在の形を少なからず殺すことだ。存在するものすべては、その存在自身を確定させる力を持っており、それは同時に他を殺す力である。この世界のあらゆる問題は、この原理によって起こっていると感じる。
では、そもそも全ては存在するべきではないのか、元のように存在を消滅させるべきか、というとそうは思わない。無でもなければ今の世界でもない、まだ存在していない新たな世界の形が求められる時なのではないかと思う。全く違う世界認識の形を提示し、無意識の段階から存在の仕方そのものを変えないことには、この世界は終わらない。