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君は18の誕生日に、彼から彼女へと生まれ変わる

作者: 夜狩仁志

SVB大賞 応募作品

テーマ「君と私の日常の物語」

 私とアオイは、林と田んぼの間を蛇のように伸びる帰り道を、今日も変わらずに歩く。

 見慣れた風景が、私たちの歩く速度で視界の後ろへと消えていく。


 鳥のさえずりが聞こえる林が続き、私の右手の触れるか触れないかの位置に、幼馴染のアオイが歩く。

 その先には、水を張った田んぼが鏡のように、薄い青空を写しながら広がり、奥には気持ちいいほどの色鮮やかな緑をした山々が連なる。


 先日から降り続いた雨で、田んぼの水もみずみずしく輝き、林からは湿った土の臭いが初夏の熱気と共に漂ってくる。


 梅雨時のこの時期、今日は珍しく天気がよかった。

 明るい光を浴びて、空に浮かぶ雲のように白い半袖の夏服を着た彼は、まるで映画の主人公のように爽やかな好青年を演じている。

 また今年もこの季節がやって来た。もう何年も同じ季節を、私たち二人ですり抜けていった。


 そんな見慣れた景色、ありふれた光景。


 そしていつものように、なんの変哲もない日常の会話をしながら、私たちは歩く。


「ナギ、お前、髪、伸びたんじゃないか?」

「そうかな?」


 彼はそう言って、私の肩まで伸びた髪の毛先を、風のように擦る。


「そろそろ切ろうかな」


 私は、女性にとって体の一部のような髪の毛を触られる恥ずかしさを、彼が髪の長さに気付いてくれたことの嬉しさで覆い隠す。


 私も、

「アオイも、背、伸びたんじゃない?」

 と、腕を伸ばし彼の頭を、ポンポン、と叩く。


「じゃあ、俺も、そろそろ切るかな」

「なんでよ」


 そしてお互い笑いあう。


 そんな、他愛もない日常。


 お互い小学校、中学校、高校と同じ学校に進学し、同じように登下校する。

 ただそれだけの、それ以上でも以下でもない関係。

 付き合っているわけでもない。

 いつから一緒に歩くようになったのかも、定かではない。


 気がついたらこうなっていた。

 これが私の習慣、日常の一部となっていた。


 私は、彼と住むこの町の、この風景とそれに溶け込む彼と、彼と共に過ごすこの日常が好きだった。

 同級生の多くは高校進学とともに都会の高校へと進学していった。 

 都会はこことは違い、常に変動し留まることをしない。


 都会。そこは目まぐるしく絶えず変化し、流れて消えては生まれ、そしてまた消えていく世界。

 流行や広告やビジネスまで、常に最先端を求め、変わり続けている。

 そんな忙しない場所は、私という存在も大河の激流に浮かぶ泡のように、流され沈み、搔き消されてしまいそうで嫌いだった。


 ここでは緩やかに時間が過ぎていく。

 春が来て夏になり、秋になり、そして冬が来る。そのサイクルの繰り返し。

 私たちの見ているこの狭い世界は変わらない。

 その中で花々は咲き、木々は新たな芽が生え、日々成長し変化していく。


 私たちも本質は変わらない。でも成長していく。

 彼は初めて会った時よりも、立派に男らしくなり、学校でも人気の生徒となった。

 私も年頃の女の子としての自覚はあるが、彼の見る日常では私はどう見えているかは分からない。

 でも、きっと彼も私と一緒で、このままの変わらぬ生活に満足しているに違いない。

 そう私は、信じていた。



 ある日の学校での昼休み。

 私たちのグループは、みんなで机を合わせて、お弁当を食べ始めていた。


 いつものように、おかずを口入れながら、噂話に花を咲かせる。


「ねえ、そういえば、ナギって、いつもアオイ君と一緒だよね」

「うん、まあ、そうだけど?」


 話の流れで、私と彼の話になった。

 彼とは単なる幼馴染み。

 幼稚園から、この高校まで一緒だったという事実があるだけのこと。

 だけど、そんな周りからの信頼と人気のあった彼と一緒にいるというのは、私にとってはちょっとした優越感を感じていた。


「あの、噂があるんだけど」

「噂?」

「アオイ君の事なんだけど」


 そんな目立つ彼には噂はつきもの。

 私生活やら交遊関係やら、真偽は別としていつも様々な噂に彼は巻き付かれていた。

 私はそんな噂は信じなかった。

 彼について知らないことはないと、自負していたから。

 この長い歳月を共にしてきた私には、それほど自信があった。

 彼を一番理解しているのは私だ、と……


「アオイ君ってさぁ、来月、誕生日じゃん?」

「そうね」


「性選、どっちにするか聞いてる?」

「……特になにも聞いてないけど」


『性選』

 この時代の、この国。

 18歳になると様々な権利が得られるようになった。

 選挙権、結婚、進路、職業の選択、その他様々な権利が得られるとともに、義務と責任が負わされた。

 その権利の一つに、後天的な性別の選択が認められていた。


 自分で自分の性別を決められる。

 通称『性選』


 前世紀では不可能だった性別を決める権利。

 数年前から実現された私たちに与えられた権利。


 生まれながらの性から解放され自由になる権利と、性差のない社会の実現。

 という、大人たちの都合により誕生した『性選』という仕組み。


 もちろん同性でも結婚もできる。

 子どもも作ることもできる。


 性別は前世代と比べ、気軽に選べるファッションの一つとなっていた。

 その時の流行に流され、スポーツ界で男性のヒーローが誕生すれば男性へと転化するものが増え、舞台で話題の女優が活躍すれば女性へと変わるものが多くなる。

 性別は神聖なものから、薄っぺらい紙一重の区画に過ぎなくなった。


 私は性別を変えるつもりはなかった。

 変える必要性がなかったし、今の性に別段不満もなかった。

 だけど、そうでない人もいるのは事実。

 現にこの学年でも、いち早く18歳になった女の子が男になったという話を聞いた。


 それは本人の自由。

 私がどうこう言う資格はない。

 別におかしい事でも、変な事でもない。


 ただ私は変わらない。

 それだけのこと。

 そしてそれはきっと、彼も同じのはず。

 彼が女に変わる意味も、理由も見当たらない。


 きっとそう。そのはず……


「アオイ君、女になるって」

「えっ!?」


 そんな予測を飛び越えた質問に、思わず私は、恥ずかしいほど声が裏返ってしまった。


「アオイ君って、今度の誕生日に女になるって、本当?」

「……そ、そんな……」


 私の聞き間違い?


 最初はそう思った。

 でも確かに『女になるって』と、頭の中で繰り返しても、そう聞こえていた。


 まさかそんな質問がされるとは、考えもしなかった。


 彼がそんなことをするはずがない。

 仮にそうするとしても、私に相談してるれるはずだ。


 そんな重要なこと黙っているはずがない。


 そう、これは誰かが彼を妬み、嫉妬して、ありもしない噂を流した結果。


 そう自分に言い聞かせた私は、胸に何か詰まったものを、吐き出すように答える。


「そんなこと、一言も言ってなかったわよ」

「だよねー そんなはずないわよねー」


 そして周りは、そのことには気にもせず、次の話題へと切り替わる。


「そういえば今度18歳になる人、誰……?」

「このクラスでは……」


 私の耳はすでに外部からの声が聞こえない状態になっていた。


 そんな噂を誰から聞いたのか?

 知りたかった。

 それ以前に、その噂が本当なのかどうか……


 真実が知りたかった。


 しかしその好奇心とは裏腹に、それがもし本当だったらという恐れが、私を冷たく抱きつくようにして、血の気を引かせる。

 私は午後の授業が始まっても、その不安をぬぐい去ることはできず、授業内容などすり抜けていった。

 そして授業が終わるころには、その小さな黒い不安という砂粒は、次第に大きな岩となって、私の背中を押しつぶすほどになっていった。



 放課後……

 外は、どんより曇り空。

 私の心を表しているかのように、今にも降り出しそうな低く灰色の空。


 彼はいつものように正門の脇で待っていてくれる。


 私は教室を出て、外へと向かう。

 けど、何故か足取りが重い。

 いつもと違い、身体がゴムで教室の椅子に縛られているかのように重く、苦しい。


 どんな顔をして会えばいいのだろう?

 もしかしたら私の顔は、ひどく不安に怯えた醜い顔をしているのかもしれない。


 でも、彼はいつもと変わりなく私の姿を見つけると微笑む。


「よぉ、遅かったな。どうしたんだ?」

「……いや、べつに、ちょっと、ね」


 私たちの、いつもの帰り道。

 普段と替わらぬ風景

 そこに飛び込んでくる、彼のいつもの他愛もない世間話。


 今日は全然私に入ってこなかった。


 彼の言葉が風のように通り過ぎていくだけ。


 私の心には、あの時から……

 あの時に聞かされた、噂話に過ぎない言葉が、小さな針となって刺さったままだった。

 こうやって彼を見て、話して、声を聞いて、歩くたびに、私の胸の中を鋭く突き続けていた。


 彼の見慣れた笑顔が、今では逆に作り笑顔のように思えて仕方がない。


 問いたださなくては。

 真相を聞き出さなくては。


 何度も心の中で自分に言い聞かせるが、言葉にする勇気がなかった。


 大丈夫、そんなことはない。

 彼がそんな選択をするはずがない。

 だって理由がない。

 男から女に変わるなんて。


 これからも、いつまでも、この関係が、日常が続くはず……


 今にも不安と恐れという、どす黒い塊が口から吐き出されそうな、嘔吐感を堪えつつ……


 私は、いつもと変わらぬ様子の、私の横を歩く彼に尋ねた。


「ねえ?」

「え?」


「そういえば、そろそろ誕生日だよね」


 自分でも声が震えているのが分かった


「まだ、一ヶ月も先だけどな」


 そう言って笑う彼の顔を直視できず、私は地面を見ながら重い唇をこじ開けて言った。


「アオイは……性別、変えないよ……ね?」


「……」


 彼の表情は分からない。

 恐くて見れない。


 ただ、否定する言葉を聞きたかった。

 それだけの事。

 でも、否定する言葉も、なにも帰ってこなかった。


 聞こえてくるのは、林から聞こえる眠そうな鳩の鳴き声と、田んぼから私を馬鹿にするようなカエルの鳴き声。


 なんで無言なの?


 『変わらない』って、言ってよ?


 『このままだよ』って、言ってよ?


 ねえ……


 なにか言ってよ?


 なんで無言なのよ?


 なんで? なんでよ?



「なんで!!」



 小刻みに震える足で私は立ち止まり、そして叫んでいた。


 生暖かい生まれたての夏の風が、私たち二人の間を通り抜けていき、

 木の枝を激しく鳴らし、田んぼの水面に波紋をたたせて去っていく。


「ねえ、なんで、女になるの?」


 叫んでから初めて彼の顔を見た。

 そこには笑顔はなく、見とれるほど整った真剣な青年の顔があった。


 嘘だと言って。

 お願いだから、嘘だと……


「そうだよ」


 私の期待を裏切り、最悪の回答を耳にして、身体のありとあらゆる体液が頭から下へと流れ出していく感覚に襲われた。


 かろうじて残っていた力で、何とかその場で踏みとどまっていた私は、まったく言葉が喉から出せないなか、かすれるような声で尋ねた。


「なんで今まで黙ってたの?」

「こうなるだろうって、思ったからだよ」


「なんで相談してくれなかったの?」

「関係ないだろ」


「関係あるわよ!!」


 関係ないわけはない。

 だって私とあなたは……

 もう、私にとってのあなたは……


「これは俺の身体だろ? 俺の好きなようにするのは当然だろ」

「だからって、なんで? なんで女になるの?」


「なんで、って、なんとなくだよ……」

「なんとなくで決めるようなことなの!」


 だんだん彼の顔をこわ張り、イラつきが隠せなくなってきているのは分かった。

 その様子が、彼の言ったことの真実味を増すことになり、私も許せなくなった。


「別にいいだろ、性別くらい。合わなければ、また元に戻せばいいんだからさ!」

「そんな気軽に変えられるものじゃないでしょ! そんな今日着ていく洋服を選ぶような感覚で、性別を選ばないでよ!」


「俺の身体は俺がどうするのも勝手だろ!」

「私はどうなるのよ?」


 彼は、は? と顔を歪ませる。

 もう、私もなにを言っているのか分からない。

 怒りや悲しみ、失望や恐れなどの様々な感情が、大きな波となって襲いかかっていた。


「じゃあ、私は男にならないといけないわけ!?」

「なんでそうなるんだよ!」


 ホント、なんでそんなこと言ったのか分からない。


「別に俺が女になったとしても、俺は俺だろ? 記憶や性格や考え方まで変わるわけじゃないだろ?」

「そうだけど……そうだけど!」


「ナギはナギの好きな性別を選らべばいいだけの話だろ」


 私は何も言い返せないで、無言で立ち尽くすだけ。


「別に今は昔と違って、同性でも結婚できるし、子どもだってできるんだから、生まれもっての性別なんて、どうでもいいだろ」


 彼の言っていることが正論だった。


 私は何も言えなくなった。

 ただ自分の感情を子どものように、彼にぶつけただけだった。


 そして……


 いつの間にか大粒の涙を流していた。


 声も出さずに、道の真ん中で、彼の目の前で……


 何も考えられず、その場で涙が枯れるまで、泣き続けた。


 田んぼの水かさが増すくらい、泣き続けた。


 そのうち私に呼応するかのように、空から無慈悲な冷たい雨が降り注ぎ、私を痛めつけた。


 彼が何か話しかけていたが聞こえない。

 腕を掴まれたが動かない。


 どれほどの時間がたったのだろうか?

 雨は止み、周囲には夕闇が落ちかけ、カラスの私を蔑む鳴き声と、カエルのバカにする声が響き渡る。


 私は一人そこに立っていた。


 涙で歪んだいつもの風景には、彼の姿は無かった。



 どうやって帰ってきたか分からない。

 ただ気がついたら、灯りもつけないで自室のベッドの上で、毛布にくるまりサナギのように丸まっていた。


 いつも私の横には彼がいてくれて、眺める景色の中には必ず彼がいて。

 彼はまるで私の日常の……身体の一部みたいになっていて、なくてはならない存在にまで膨れ上がっていた。

 それが今、ふくらましすぎた風船のように、大きな音を立てて破裂した。


 怒り、哀しみ、失意、絶望、それぞれの絵の具が混ざり合い、どす黒い哀しみとなって私の心を塗り潰す。


 私の幸せで平和な日常は、こうもあっけなく、音を立てて崩れ去っていった。


 口から言葉が出てくる変わりに、目から抑えきれないほどの涙が溢れていた。



 次の日、初めて私は学校を休んだ。


 とても授業を受ける、そんな気分にはなれなかった。


 それ以上に、彼と会うのが怖かった。

 あんなに一緒にだったのに。

 今までうまく噛み合っていた歯車は、一つのきっかけにより音を立てて、悲鳴を上げながら崩れ落ちた。


 ベッドに毛布にくるまったまま、横たわる私。

 朝からスマホが、消し忘れた目覚まし時計のように、何度も着信でうごめき鳴り響く。


 数分おきにやってくる、彼からの連絡。


 私はそれを全て無視する。


 考えたくない。

 もう、何も考えたくはない。


 けど、なにも考えないと、逆に彼のことが思い浮かぶ。


 なんで、変わるの?

 そのままでいいのに。


 なにが、不満なの?

 このままでも十分でしょ。


 なにか私が悪いことしたの?

 言ってくれれば、私が変わるのに。

 謝るのに……


 見放された。置いていかれた。

 彼の決断に驚き、そして疑い。

 怒りから、哀しみに。

 そして、諦めに……



 夕方、彼が家に尋ねてきたようだ。

 でも、私は母親に頼んで帰ってもらうように頼んだ。


 今は会いたくない。


 でも、


 会いたい……


 本当は今すぐ会って、話したり、笑ったり……


 会えなくなって初めて気づいた自分の気持ち。


 そうか、

 私は彼のことが好きだったのだ。

 私は女として、男のアオイのことが好きだったんだ。


 だから、女になるなんて聞いて、あんなに怒りが込み上げてきたんだ。


 女の私よりも、自分が女になることを選んだと思って。


 見捨てられたと思って。


 裏切られたと思って。


 嫌われたと思って……


 そう想うと、また涙が頬をつたって流れていった。



 日が暮れ夜が降りてくると、私は毛布の中で、夢とも思い出とも区別のつかない彼との日々を思い返していた。


 初めて会ったのは幼稚園。

 まだ男も女も関係ない、お互いただの子ども。

 一緒に走り回ったり、土いじりしたり、おままごとも、人形遊びもした。


 同じ小学校に入り、毎日同じ通学路を歩く。

 バカみたいにはしゃいで、騒いで、暴れまわったりした。


 中学生になり、制服を着るようになり、私はスカートを着て、彼はスラックスを選んだ。

 彼は成長し男らしくなった。

 体つきも大きくなり、腕も手も足も、私よりも一回り大きくなり、声も大人っぽくなった。

 私と違うんだと分かり、私よりも早く大人に近づいた彼に嫉妬したし、私にないものを持っていている彼に憧れもした。

 それでも、私の日常には変わりなかった。


 そして高校生となり、男の彼と女の私。

 お互い異なる個性を持った人間でも、同じ空間の、同じ時間を過ごし、同じ景色を見て、同じ日常に生きている仲間だと思っていた。

 これがいつまでも続くと思っていた。

 成人し、社会に出て、そのまま歳を取り、よぼよぼの年寄りになっても、いつまでも……


 それを彼は裏切った。


 いや、


 私を置いて彼は新しい世界へ、新しい日常を踏み出そうとしていた。




 望まなくても朝はやってくる。


 行かないと……学校に。


 夜が明けると、私は鉛のように重い体を持ち上げ、登校する準備をする。

 いつまでも、ふさぎ込んでいるわけにはいかなかった。

 私には私の生活が、日常がある。


 これから先の予習をしなくては、彼のいない日常という……


 残り1ヶ月もない。彼が彼でいる間は。


 それでもその先、私が生きていくために。


 私はいつもより早く家を出る。


 いつも二人で歩いた道を一人で歩く。


 田も山も空も木々も、一人で見る景色は、ただ大自然の中に一人取り残されたちっぽけな私の存在を、否応なく認めさせるだけで、そこには厳しさしか見当たらない。


 一人だと、まるで私以外の人類が消滅してしまったみたい。


 孤独。


 初めて感じた、孤独という寂しさ。


 そう、いつも彼がそばにいてくれたから。


 でもこれからは一人で生きていかなくては。



 学校では彼の噂で持ちきりだった。


 私は彼に会わないように、自分のクラスへと向かう。

 そして何事もなかったかのように、席に座り授業の準備をする。


 噂話という耳障りな雑音が、嫌でも私の耳に潜り込んでくる。


(ねぇ、知ってた?)

(アオイ君のことでしょ? 嘘みたい)

(あんなにカッコいいのに、もったいない)

(私、アオイ君と付き合いたかったのに、どうしよう?)

(じゃあ、男になれば?)

(別に女同士でも、いいじゃん)


 その場から消えてしまいたかった。

 これからの日常に、逃げ出したかった。


 そう想えば思うほど、彼のことを思い出し、愛おしく思い、苦悩する。

 会いたいけど会うきっかけがない。一度外れた歯車を噛み合わせるには、大きな力が必要だった。



 それからの数日間、朝はいつもより早く家を出て、帰りは図書室で時間を潰して帰る日々が続いた。


 図書室では『性選』にかかわる書物に目を通していた。

 18歳で性転換した人たちの感想も調べた。


 生まれてきた性に違和感があった。

 別の人生を歩んでみたかった。


 もっともらしい説明がされていた。


 そんなことはどうでも良かった。

 なぜ、彼は私を見捨てるように性別を変えようとしたのか?


 その答えは、どの本にも載ってはいなかった。



 帰りは、今までとは違う道を通って帰る。


 一人で違う道を辿るという、不安と恐れ、迷いと戸惑い。


 これからは彼のいない、新たな日常を過ごさなくてはならない。

 それに比べれば、これくらいのことは。


 鬱蒼と続く林を横にして歩く。

 いつもの見慣れた林とは違い、奥の方は光の届かぬ一度足を踏み入れたら抜け出せそうにない闇が居座る。

 そこから時折聞こえてくる、夕暮れ時を知らすヒグラシの鳴き声が、さらに不気味さを演出させる。

 遠くに広がる山々は険しく、登山者を容赦なく滑落させ、人生の厳しさを、その雄大な体をもって示そうとしている。


 人生は不安の連続。


 家に着くころには、慣れない道で遠回りしたこともあって、疲労感で体の自由は奪われていた。

 そんな生活を続け、彼の誕生日まで残り一週間を切った。



 世界が夜に支配されようとしている時間、スマホにメールの着信音が鳴った。

 もう、寝る支度をしていた私は何気なくそれを見る。


 それは彼からのものだった。


『今、外にいるから会えないか?』


 嬉しさと懐かしさで私の顔は意図せずに緩んでいた。

 窓から外を覗き見ると、確かに彼が暗闇に中、ぼんやりと浮かぶように立っていた。


 私は彼の姿を見た途端、すぐに冷静になる。


 今さらどんな顔して彼に会えば……


 でも、これを逃したら、一生後悔するかも。


 男としての、私の好きだった彼とは、もう二度と会うことができないかもしれない。


 私は急いで服を着替えると、外で待つ彼のもとへと駆け寄った。


 あれだけ一緒にいた彼が、一度は遠くへ離れていってしまった彼が、今また私の目の前にいる。


 今すぐ抱きしめたい。

 手を握りたい。

 いっぱい話をしたい。


 そんな衝動を堪えて、黙って彼の前へと、ゆっくりと歩み寄る。


「ナギ」


 彼の放つ声の波長が、すごく懐かしく感じられ、私を心地よく刺激する。


「少し、歩かないか?」


 私は小さく頷く。


 私たちはいつもの道を歩く。


 無言で。


 ゆっくりと。


 夜空は大小、強弱様々な光沢を放つ星がちりばめられ、田んぼの薄暗い水面に苗だけを光らせるように照らし出す。


 私は不思議と落ち着いていた。

 波一つたたない静かに広がる水田のように、とても穏やかだった。


 やはり私は彼の側にいると、落ち着く。

 一つだけ欠けたパズルのピースが、最後ピッタリと収まった時のような気持ち良さ。


「俺さ、考えたんだよ。あれから、ずっと」


 先に静寂を破ったのは、彼の言葉だった。


 無言で耳を澄ます私に、彼は続けて言った。


「なんで女になろうなんて、思ったか……」


 彼は顔を上げ、今にも落ちてきそうな星空の、星を一つ一つ数えるかのように、言葉をつむぎだして言った。


「昔、ナガがさ、髪の毛、伸ばしてた時、あったじゃん?」


「……そうね」


 いつかは忘れてしまった。確か小学2年生までは切らずに伸ばしていたと思う。それ以来、髪は肩にかかるくらいのミディアムボブ。

 そんなこと、もう昔のことで忘れてしまった

 私にとっては、その程度の些細なこと。


「それが、いつの日か、バッサリ切っただろ」


 確かにそんなこともあった。

 暑いとか、邪魔とかいう理由で、おもいっきり切ったことを覚えている。


「それが俺にとっては凄くショックで、頭にきてな」


 そう。なぜか私は怒られた。

 なに勝手に切ってるんだよ……って。


「なに勝手に切ってるんだよ、って」


 私が思い出し、彼が言う。

 そして、目が合う。


 彼の瞳は夜空のように吸い込まれるくらい黒く、それでいて星のように煌めき輝き、私を真っ直ぐ照らし出す。


「俺、すごく悔しくてな。その、ナギの長くて綺麗な髪が好きだったんだよ。それを勝手に切られてさ」


 私の髪の毛が綺麗で?

 好きだった?


 そんなことは今まで一言も言われたことがなくて、私は驚きとともに、彼の言葉を疑った。


「羨ましかったんだよ。ナギの奇麗な髪も、可愛い顔も、細く白い指も、なにもかもが」


 そんな単純な言葉でも、私を喜ばせるのには十分な音色だった。

 微笑みそうな自分を、必死で押さえ込んでいる私がここにいた。


「だからそれが欲しくて……俺は女になろうとした……と、思う、んだ」


 私みたいな女に? なりたかった?


「ナギみたいな人間になりたかったんだよ。可愛い女の子に、さ」


 彼が私を可愛い女の子だなんて……

 初めて……

 初めて言われた。


 ただの幼馴染み。

 ただ長い間、お互いの日常という時間を共有したにすぎない、彼の見る風景の一部でしかない存在の私。


 そんな私に、なりたかった?


「でもそれは違ったんだ。ナギのような女の子になろうとしたんじゃなくて、ナギが欲しかったんだと」

「え?」


 その言葉に私の身体がピクリと勝手に反応し、足を止めさせる。


 怖くて見ることができない。

 その先が聞きたいようで、知りたくない。


「ナギのことが好きだったんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、なにか今まで我慢していたものが、飽和状態を超え、溢れだしてきそうな思いがした。


「俺のものにしたい。手に入れたい。ナギが欲しいんだ」


 私も……

 今なら言えそうな気がした。


「私も、私もアオイのこと、好きだよ」


 振り向いたそこには、星の光に照らされ浮かび上がった彼の姿が。


「近くにいすぎて、気がつかなかった。私の体の一部みたいで、いつも一緒にいたから。でも、いきなり女になるって聞いて、置いてかれたようで、裏切られたようで……」


「ごめん、俺はこのままでいる。このまま男でいるよ」


 私は言葉よりも先に、彼に抱きついていた。

 今まで一緒にいたのに、あまり触れることもなかった彼の体に、その存在を確かめるかのように、強く深く体を重ねた。


「もう自分の体は、自分の好きなようにするなんて言わないで。アオイはアオイだけのものじゃないの。私のアオイでもあるから」


「悪かった。もう二度と言わない。だからナギも」

「うん」


 彼の腕が優しく私を包み込む。


「ナギも俺のものだから……」


 夜空には星のシャンデリアが。


 辺りにフクロウの祝福する声が響き、

 カエルのひやかす声がこだます。


 苗木の緑のブーケと、

 水面にたなびく星の光のろうそくが、


 私たち二人を歓迎する。


 彼が見てきた、私の映る日常。

 私が過ごしてきた、彼の居る日常。


 それは、今から私たちの、一つの日常となって、新たな物語となって進もうとしていた。

長めの話でしたが、読んでいただき、ありがとうございます。


また別の作品でお会いできることを、楽しみにしております。

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