ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
レディーインブラック
少し眠ろう、と思ったのは、疲れのせいばかりでは無かった。
列車の窓から見えるのは闇ばかり。夜行の急行とはいえ、東海道の主要駅には止まっている。どうせ朝まで東京にはつかないのだ。読む本も尽きてしまった。乗客は少なかったが、まさかここでストレッチを始めるわけにもいかない。それに第一、そんな気力も無かった。ポケット瓶のウイスキーのお陰で、列車の揺れも気持ちよく感じていた。
ふと、目がさめた。
あたりは、眠る前と変わっていないように見えた。ただ、直角になった椅子が、腰に強烈な痛みを起こしていた。もはや、これは拷問だ。どうせ旅費を浮かすなら、夜行バスにすればよかった。あっちは、少なくともリクライニングが出来るシートが備わっている。おれは、ディーゼルの排気くささが苦手だった。バスの車内は、ほんのわずかだが、常にディーゼルくさい。あのにおいを嗅いでいると、食欲が無くなってくるのだった。
本当は、明日の朝一番の新幹線に乗るはずだった。だが、おれは出張費を浮かして、その浮いた金でうまいものでも食おうと決めていたのだ。体重が毎年増えてきて、3桁になったのはついこの前のことだった。年齢が40を越えて、友人からは成人病か何かで、突然倒れて死ぬぞ、と脅されている。確かに、最近は体の調子も良くは無い。
「あの、ここ、空いていますか?」
突然、そう声をかけられて、おれは驚いた。まったく予想していなかった。深夜の急行列車の中で、新たに席を探すものがいるとは思ってなかった。
「あ」
考えてみれば、いくらか駅に停車しているのだ。
新たな乗客がいてもおかしくは無い、と思い直した。
「ええ、空いていますよ」
おれは、愛想笑いをして答え、声をかけた人の方を見上げた。声から、若い女性だとは気がついていたが、おれは、またしても驚いた。おそろしく美人だった。おれは、自分でも重くなってしまった自分の体を、腕で押すようにして席を空けた。
「すみません。」
そういうと、その女は持っていた大きな包みを向かいのシートに置いて、自分もその隣に座った。
今時珍しい、ふろしきの包みだった。それを、大事そうに抱えていた。
おれはすっかり目がさめていた。目も醒めるような、という表現が、美人が登場したシーンに使われるが、まったくその通りの美人には、初めて遭遇した。おれは、声をかけないのも、もったいない、と思った。
「あの、どちらまでですか?」
女は、まったく優雅な、いや疲れているのかもしれないが、ゆっくりした動作で小首を上げた。
「ええ、東京まで」
「そうですか。偶然、わたしもです。出張なんですよ。そちらは?」
女は、めんどくさそうな顔一つせず答えた。疲れているだろうに。客商売なのかもしれない。例えば旅館といったような。
「わたしは、葬式なんです」
おれは虚をつかれたような顔をしたに違いない。
「いえ、仕事のお付き合いの方ですの。言ってみれば、わたしも出張なのかもしれませんわ」
よく見てみれば、女は黒いスーツに身を包んでいた。だが、不思議なほどその黒が似合っているのだ。
「そうですか。失礼しました。いろいろと大変でしょう」
「そうでもありませんわ。むしろ、東京で少し遊んでこようかとも思っているんですの」
おれは、そういう言葉を聞き流しながら、まじまじと女の顔を観察していた。待てよ、この顔には見覚えがあるような気が・・・。
「そちらは、お仕事ですの?」
「ええ。役所周りですよ。旅行関係の雑誌を作っていましてね。いろいろと認可もいるんです」
「旅行関係の雑誌ですか?おもしろそうですね」
「もともと、あちらこちらへ旅行に出かけるのが好きだったんですよ。若い頃はバックパック一つで電車に飛び乗って出かけたものです。日本の名所と言われるところにはほとんど行きましたね」
「そうですか?わたしは天の橋立を見てみたいと思っているんです。行かれましたか?」
「もちろん。あそこは、夜がいいですよ。昼間は観光客が多すぎる。夜は人がいませんから、平安時代のような静けさを味わえます」
もちろん、おれは平安時代の天の橋立を見たことがあるわけではなかった。
「でも、暗くて恐ろしいんじゃありませんか?」
女は控えめに微笑みながら言った。
「いや、電燈がついていますしね。まあ、女性が一人で歩くのは勧められませんが」
いや、待てよ。こんな会話を以前にもしたような気がする。デジャブ、そんな言葉が浮かんだ。既視感。以前、夢でも見たのかもしれない。この女の顔も夢に出てきた女に似ていたのかもしれない。
記憶を探るように、女の顔を見つめた。
そういえば、若いころ旅先で、これと同じ夢を見たことがある。山口に言った時のことだ。無理な計画で、肺炎を起こして通りがかりの男に病院に担ぎ込まれた。あの時に、これと同じような夢を見た。黒いスーツに身を包んだ女が現れて、こういうのだ。「一緒に行きましょう」
医者から後になって聞いたのだが、その時おれは、相当に危険な状態で担ぎ込まれてきたそうだ。一時は、本当に生命の危険があったと聞いた。
「じゃあ、一緒に行きましょうよ」
女は、そう言った。おれは、思わず女の顔を見つめた。初対面で一言二言話しただけの相手に、普通、そういう言葉を言うものだろうか。いくら、社交辞令のような意味でも。
女はおれの顔を、優しい目で見つめながら微笑んでいた。おれは、薄気味悪くなってきた。
「以前よりずいぶんと恰幅がよくおなりになりましたね」
女は、おれを見て言った。女の目には、おれを知っていることがありありと見て取れた。
確かに、おれはこの女に会ったことがある。だが、それは夢の中のことだ。この女がおれを知っているわけが無い。おれはたまらなくなって言った。
「すみませんが、以前、何処かでお会いしたでしょうか」
女は、相変わらずにこやかなままで言った。
「ええ。山口で。あの時は、一緒に来てくださらなかった」
おれは、ただにこやかに微笑む女に見つめられて、一気に体温が下がっているような気がしていた。
「失礼します、切符を拝見します」
おれは、背後から声をかけられて、振り返った。車掌が、あのカチャカチャいうハサミを持って立っていた。
「ああ」
おれは、背広の内ポケットをまさぐって、乗車券を手渡した。手がぐっしょりと汗ばんでいた。車掌は、それにハサミに見えたスタンプを押す機械でスタンプを入れた。音はしなかった。
「はい、お返しします」
そう言って、彼は立ち去っていった。待て、この女は・・・
向き直って前を見たとき、女はいなかった。ただ、そこにはいつから置かれていたのか、一枚の葉書が置かれていた。あの女が忘れていったものなのか、と思って拾い上げると、葬式の案内だった。日時は4日後で、住所は東京ではなかった。
だが、そこに書かれていた名前は・・・・おれ自身のものだった。