第37話 Day 0 戎谷有悟
数日前までの僕にとって、一番の苦痛は勝手に兄さんと比べられて、勝手に失望され、憐れみと蔑みの目で見られることだった。
それは年月を追うごとに積み重なっていき、自分の中で限界まで来ていたのかもしれない。
そして、あの日。堪えてきた感情がついに表にあふれ出してしまった。
事件のあった日、十月十日――。
その日は朝のホームルームから僕を苦しめる出来事があった。一ヵ月後に迫った文化祭の実行委員を決める話し合いが行われたのだ。
本来そういう話し合いには参加しないので、僕には縁のない話のはずだった。
しかし、こと文化祭になると話題にあがるのが一年前の文化祭のことで――それは兄さんが高校最後の文化祭で色々と活躍したことがクラスメイト達の記憶にも新しいのかそれが話題にあがる。
「文化祭といえば、去年のはすごかったね」
「そうそう。模擬店もすごかったよね。衣装も接客もかわいかったし」
「あれ、全部、戎谷先輩が考えたやつよね? ほんとまじですごいよね」
教室内はざわつき、本題の委員決めは進んでいなかった。そして、まばらに僕に視線が集まり、ため息をついて雑談に戻るというのが繰り返され――それは兄さんの話題から弟の僕である方を向いて、勝手に比較して失望しているのだ。
委員決めは広谷先生が兄さんのことを上手く引き合いに出し、酒井君を釣り上げていた。ホームルームが終わると、僕は教室を急いで後にする。
階段を降り、いつもの非常階段に人目を気にしながら向かう。いつもより胃が痛むのを感じる。
校舎の影でコンクリートの壁に頭をつけ、胃の痛みに耐えながら、何度も拳を壁に打ち付ける。
「なんで、いつも兄さんばっかり……僕と兄さんは違うのに、勝手に期待して、勝手に失望するんじゃねえよ! ふざけんな……ふざけんなよ……もう嫌だ……」
僕は感情を吐き出し続ける。一時間目の授業が始まっても僕は教室には戻らなかった。戻りたくなかった。それに都合よく一時間目は木本先生の数学だった。一年生の時に授業後に先生に間違いを指摘して、その流れで教え方がおかしくないかと言うと、嫌な顔をされた。
「チッ……兄弟揃って……俺の授業に文句があるなら、授業にでるな」
と、勝手に逆切れされてしまい、僕は授業にでなくてもいい立場になった。だから、それを利用して僕は時折、木本先生の授業をサボっていた。今回も形の上ではそれと同じだ。いつものように、でなくていいと言われている授業にでないだけ――。
一時間目の時間を丸々使って、僕は気持ちを静めたが、今日はいつも以上に視線が気になった。
そして、放課後――僕はいつものように人の流れが落ち着くのを見計らって、教室から出た。人目がないことを確認して中央階段を上り、屋上に向かう。
屋上へ続く扉の鍵は普段はしまっているが僕はその鍵を持っている。それは兄さんが以前持っていたものから作った合鍵だ。去年の夏あたりに兄さんが泊りがけで出かけた時に、兄さんの部屋から拝借して、合鍵を作りその日のうちに元の場所に戻した。兄さんが在学中は屋上にはほとんど近寄らなかったし、兄さんからは何も言われなかったので、僕が合鍵を持っていることすら知らないかもしれない。
屋上の扉を閉めて、すぐ脇の壁に背を当てて座り込んだ。
空を見上げると、夕焼けが綺麗で――空を見上げるとホッとする。
僕の上には誰もいない。見下す人も、憐憫や侮蔑の視線を送ってくる人もいない。
こうしている時間だけ、僕は自由だ。僕が僕でいられる。
しかし、その平和な時間は唐突に終わりを迎える。来るはずのない訪問者がやってきたのだ。
扉が開かれ、クラスメイトの一人、安居朱香が入ってきた。
彼女は空を見上げ、吹き抜ける風に制服のスカートと髪が柔らかく揺れる。
僕にとって彼女は理解できない部類の人間だった。面倒ごとを自ら引き受けながらも嫌な顔をしないし、授業を受ける姿勢は真面目で、努力しているのは分かるが、成績に反映されていなくて――それでも腐ることなく努力を続けている。どうすればあんな風に過ごせるのか分からなかった。
決して目立つ方ではないのに、笑顔がとても魅力的で、僕に対して嫌な顔をしない珍しいタイプで、僕は彼女に興味があった。
そんな相手が今、いるはずのない屋上にやってきたのだ。驚かないわけがない。
それだけでなく、僕の隣に座り込んできた。何を言われるのかと警戒しながら僕は待っていた。
「今日は空が綺麗だね」
唐突にそんなことを言い出すので、僕は意表を突かれる。そして、言葉の通り綺麗な空を見上げる。ただ、僕には先ほどまでのような綺麗さを感じない。
僕にとっては夕焼けに染まる茜色の空に突如黒い異物が混ざり、次第に侵食していき、曇っていくように見えた。
それは僕の心を表しているのかもしれない。隣にいる存在そのものが僕の平穏をかき乱す真っ黒い異物なのだから――。
僕は見る価値がなくなった空から隣に座る安居さんに目を向ける。
「どうして、ここに来たの?」
「ここに来れば気持ちが晴れると思ったからかな……」
空を見上げたまま、そう呟く。僕はどう反応していいか分からず、隣にいる安居さんをじっと見つめる。
「ごめんね。そう言われても、戎谷君は困るよね。ねえ、戎谷君。君はどうしてここにいるの?」
「僕は……」
言葉に仕掛けて僕は思いとどまる。人に自分のことを話すのは好きではない。
「なに? 私でよかったら話を聞くよ?」
「どうして、僕なんかの話を聞きたいのさ? 君には何の得もないだろう?」
「うーん……得とか損とかじゃなくてね。今の……いや今日の戎谷君は辛そうだったから……このままだと戎谷君はきっとしんどい思いを抱えなきゃいけなくなると思ったから」
「それは君の考え方だよね? そういう偽善を僕に押し付けないでくれないか?」
「偽善でもいいじゃない。人の為に行う善なんだから、私は偽善と言われても君をほっとくわけにはいかないよ」
安居さんはそう笑顔で僕に言ってくる。僕はその言葉を――その笑顔を信じてみたくなった。きっと心が弱っている。弱っている時に優しくされるとこうも心は揺り動かされるのだと知った。
僕は兄さんとのことを話す。そして、比較されるのはいいが勝手に失望され蔑まれることに苦しんでいること、兄さんが卒業しても、兄さんの亡霊ともいえるようなものが学校を闊歩していて、兄さんという存在から逃げられないでいること。
僕は僕でいたいのに、周囲はそれを許してくれない。いつも僕は、優秀な兄さんの弟でメディア露出している大学教授の息子で、官僚の息子で――そんな風に常に装飾されてきた。そんな誰からしてみても腫れ物の僕は家の外でも中でも安息の場はなく、息苦しい生活を強いられていた。
僕は全てを吐き出した。それは周囲への怨嗟の言葉であり、誰かに助けを求める声でもあり、自分への呪詛でもあり――それを静かに聞いていた安居さんはいつの間にか静かに涙を流していた。
「君がどうして泣くんだい? 僕は誰かに泣いてほしくて話したんじゃない。泣きたいのはむしろこっちの方だ」
「ごめんなさい……」
僕は謝ってほしいわけでもなかった。なら僕はどうして欲しかったのだろう? 僕が答えが出そうにない問いに悩まされていると、
「でも、戎谷君はそうやって比べられることに慣れてしまって、いつの間にか優秀なお兄さんの弟であることを逃げ道にしていたんじゃない? 自分ができないのは挑戦しないからではなくて、お兄さんと違って優秀でないからと最初から諦めてきた事もあるんじゃない?」
と、同情でも侮蔑でもなく、僕に違った角度で言葉を投げかけてきた。僕は言葉を失う。それは図星でもあったからだった。
「私は戎谷君はもっと上にいける人だと思っているし、お兄さんや家族という見えない高い壁があっても、それを乗り越えていける力があると思うのに、なんでそうしないの? それはきっと君は自信がないんだ。自信を持てることがあっても、それを自分で過小評価し、周りも同じように君をお兄さんと比べてダメだと言い続けてきたんでしょう? それでいつの間にか自信を根こそぎ奪われたんだ。私のように戎谷有悟君を高く評価したりしている人に気付けないほど、どんなにがんばっても認められない、周囲はきっと全員自分に対してお兄さんの影を重ねていると思い込んでいるんだ。そんな生き方はきっと間違ってる。悲しいだけだよ……」
そういう君の声は震えていて、でも言葉は力強くて――。目の前の安居さんは僕を僕として認識して、見てくれていたからこその言葉だったのかもしれない。それは正論で自分で見ないようにしてきた僕の本質で――。
しかし、それでも――だからこそ、僕は僕を否定されるということを受け入れることはできなかった。僕の何を知っているんだ、と声を荒げたかった。だから、
「そう言いながらもお前もどうせ、兄さんと僕を比べるんだろう? あの何をやらしても完璧な兄さんとさ。そして、僕の姿に勝手に幻滅するんだ」
と、口にする。それは心からの言葉ではなくて――そうだと言ってくれる方が僕は助かる。僕を正面から見ようとする人の目は僕には辛かった。
「ち……違うよっ!」
しかし、君は否定してくる。僕のために僕の言葉を否定する。だけど、素直に受け入れることができるほど僕の生きてきた人生は僕に優しくなかった。
「何が違うって言うんだ!」
僕は喉が痛いと思うほど声を張り上げる。その声に圧倒されたのか君は思わず立ち上がって背を向ける。僕も同時に立ち上がりは無意識に君の手首を掴んでいた。僕を責め抜いて否定してほしかったのかもしれない。だから、ここで帰ってもらっては困ると思った。君は苦痛に歪んだ顔で僕の方に向き直る。
「戎谷君。この世に完璧な人なんていないよ。悩みがない人間だっていない。みんな誰しもが何かしら抱えているのよ。それは私もだし、君のお兄さんも――秀介さんも一緒のはずだよ。戎谷君自身が一番秀介さんと自分を比べているんだ。だから――」
僕には途中から言葉は届いていなかった。
「秀介さん、か――。やっぱり君も……お前も兄さんか――」
僕に話しかけてくる人間の中には兄さんと近づきたくて話してくる相手がいた。僕はそういう人が堪らなく嫌いだ。そういう人は決まって瞳の奥が曇って見えた。僕とは兄さんのために嫌々接しているというのが透けて見えたからだった。そして、そういう人は決まって兄さんを“秀介さん”と呼んだ。
僕は安居さんがここに来た理由を“そう”結論付けることにした。そして、僕の弱い部分に触れようとしてきたこと、その他全てが演技かもしれないと思うと目の前の人間が人間に見えなくなった。
夕焼け染まる学校の屋上にいるはずなのに、空は黒く染まったままで、目の前は真っ白になっていって――モノクロの世界に僕は立っていた。
僕は気がつくと、目の前にいたはずの人間の首を絞めていた。
僕は苦しさから解放されたかった――息苦しい世界から自由になりたかった。
だから、この息苦しさを目の前のやつに知らしめてやりたいと無意識に思ってしまったのだろう。
その元凶はあろうことか抵抗してきた。首を絞める僕の右手首あたりを右手で掴んできたが、そこを掴んでいてはどうやっても逃れることはできない。
そして、僕の手首を掴んでいた手がだらんと下に落ちる。最期の瞬間、目の前の人間は苦しみに歪んだ表情を浮かべるわけではなく、どこか穏やかな目で僕を見つめたまま光を失っていった。
僕が手を離すと屋上に君はぐったりと倒れこんでしまった。
そして、急に世界に色が戻ってくる。
夕焼けに染まる世界は綺麗な茜色で――僕の前には僕が手にかけたクラスメイトの姿があって――。
僕は人を殺してしまった――。
しかし、その罪を感じる前に不思議な高揚感に包まれる。
「やった……やったのか? でも、僕は兄さんにもできないことをやったんだ。人の道から外れたことかもしれないけれど、兄さんには一生できないこと……僕は兄さんに勝った……勝ったんだ」
そして、すぐに冷静になっていき、激しく後悔する。僕は兄さんにできないことをしたかもしれないけれど、このままでは僕は社会的な意味で人生を終えてしまう。それでは意味がないと思った。
このクラスメイトをどうにかしなければ、僕には未来がない。
僕ならば、この状況からでも犯人にならずに逃げ切れると思った。
まずは状況を確認する。目の前の人物の首にそっと指で触れる。まだ温かいけれど、脈はなく胸も動いていないことから死んでいる――正確には心肺停止していることが分かる。
しかし、蘇生処置をする気も、念のためにさらなる危害を加える気もなかった。
このまま死んでくれたらそれでいいし、運よく蘇生して僕のことを話したらそれまでだと思った。
次に遺体をどうしようかと悩む。殺人を犯した犯人が困るのは、遺体の処理だと小説か何かで読んだことがあった。たしかに、これだけの質量のものを痕跡も残さずに処理するのは難しい。
計画を練っていたらできたかもしれないが、現状は突発的なものだった。そして、ここは学校だ。誰にも気付かれないようにどこか別の場所に移動させるというのは現実的に考えて難しい。
考えた結果、屋上にこのまま放置か校内に隠すかの選択しかないように思えた。しかし、屋上は入れる人間が限られていること、そして、兄さんが鍵を持っていたことを知っている教師から僕の方に疑いの目が向く可能性が高いことから得策ではないと結論付けた。
校内に隠すとなっても、放課後で人は少ないといえ、難しいことには変わりはない。そこで今日中に発見はできるけど、すぐには見つからない場所に隠そうと考えた。その間に僕のアリバイというべきものを作れば問題ないと思った。その方法には心当たりはあった。
僕は安居さんの体を持ち上げ、おぶるようにして校内に戻る。そこで最初に目に付いた大きな掃除用具入れの中に隠すように遺体を押し込んだ。
そのとき僕に不運が訪れた。
ペンが落ちる音が聞こえたのだ――。
僕はペンを回収する前に、掃除用具入れの扉を閉め、屋上への扉のドアノブと掃除用具入れの持ち手をハンカチで丁寧に拭く。その後、屋上への扉を施錠する。
そこまでしてからペンを探す。幸い近くの床に落ちていて拾い上げ、ブレザーの内ポケットにいつものようにペンを挿した。
このときは安居さんが同じペンを持っていて、僕のペンは僕のいる場所からは死角になる階段の脇にまで転がっているなんて思いもよらなかった。
そして、僕は鞄を手にいつもの非常階段の踊り場まで人に見られないよう細心の注意を払いながら移動する。下の方からいつものように吹奏楽部の部員の練習する音が聞こえる。お世辞にもあまり上手いとはいえないサックスの練習する音だ。僕はその部員とは何度か顔を合わせていた。
僕は体操服の入ったトートバッグをそっと踊り場に置き、そのまま非常階段で下の階に向かうことにした。トートバッグで僕がここにいたということを証明し、それだけでは弱いアリバイを吹奏楽部の部員に証人になってもらおうと考えたのだ。
僕が放課後どこで何をしているかを知っている人は極端に少ない。だからこそ、利用できると思った。きっと彼が僕がここにいたと言えば、勝手に事情を察した人が深入りせずに納得してくれると思った。
僕はわざわざ吹奏楽部の彼の横を通り過ぎる際にチラッと彼の方に顔を向け、目を合わせる。僕が通ったことをアピールする必要があったからだ。
そこからは僕は何事もなかったかのようにいつものように下校した。
家に帰り、僕は自分の引き出しの奥に合鍵をしまった。帰り道どこかで捨てようかと思ったが、それをもし誰かに拾われて警察に届けられた場合を考えると安易に捨てるなんてできなかった。
制服を脱いでハンガーに掛けようとしたところで僕は違和感に気付く。ブレザーの右の袖のボタンが一つなくなっていたのだ。そのことで思い当たるのが首を絞めたときに手首を掴まれたことで――ボタンをすぐになんとかしないといけないと思った。そこで、僕は兄さんの部屋にそっと忍び込んだ。家の中には今、夕食の準備をする家政婦の紗和子さんしかいないので、忍び込むのは簡単でクローゼットの端に掛かっている制服をハンガーごと取出し、僕の部屋に持っていく。
部屋で兄さんのブレザーからボタンを取ろうとするも、前を留めるボタンは二つともなく、袖に三つずつ付いているボタンは一つずつの計二つしか残っていなかった。きっと卒業式のときに渡したのだろう。そういう話をクラスの誰かがしていたのを耳にした記憶があった。
こういうボタンの残し方をしているのは兄さんも何か考えがあってのことかもしれない。それならボタンを取って、そのまま元に戻すというのはまずい気がした。しかし、今は兄さんのブレザーからボタンを取って、機を見て、新しいボタンを買うなりして付け直して、兄さんのクローゼットに戻そうと考えた。兄さんは基本この家には帰ってこないので、時間的な余裕はある。
それまでは兄さんのブレザーは僕のクローゼットの奥に隠しておくことにした。
ボタンを確保し、紗和子さんにボタンを付けてもらうためにポケットのものを一度全部出して僕は衝撃を受ける。
内ポケットに挿していたペンが僕のものではなかったのだ。デザインは一緒だが、芯が違うのだ。今から学校に戻るというリスクは負いたくない。もしペンが原因で僕が捕まるのならばそれは僕のミスなので受け入れようと諦めにも似た想いを抱いた。
紗和子さんに予定通りボタンを付け直してもらい、ペンは何かのためにいつもとは逆の内ポケットに挿すことにした。そうすれば間違って取り出すというミスも防げると思った。
今できる限りのことを僕はしたので、後は運を天に任せるのみだった。




