第27話 最期の週末に
夢を見ていた気がする――。
私は茜色に染まる空を見上げていた。
そこは知ってる場所の知らない場所で、私はいけないことをしているという緊張感と背徳感から不思議と気分が高揚していた。
ただそれだけでモヤモヤとした負の感情が吹き抜ける風に乗ってきれいになくなったような気さえした。
そして、私の視線は、少し驚いた表情を浮かべる君を捉える。
君の隣に腰を下ろした私は、君に伝えるべき言葉を言い出せずにいた。
さて、なんて声を掛けようか?
「今日は空が綺麗だよね」
私の言葉に君も空を見上げる。その視線は空というよりただ上を向いていて、時折吹く風で揺れる髪の間から見える君の瞳には生気というものが感じられなくて――背筋に寒気が走った。
目が覚めるとまだ部屋の中は薄暗かった。朝日は昇りきっていなくて、どこかひんやりとした空気を感じる。ひんやりと感じるのは夢のせいなのか、気温のせいなのだろうか――。
夢と現実が切り替わる瞬間というものを経験したのはいつ振りだろうか?
小学校低学年くらいまでの幼い頃は、夢に見る世界と現実の世界の境目が曖昧で夜眠るのが怖くて、なかなか寝付けなかった。
「そういうときは幸せな時間を思い出しながら眠りについて、夢の中でも幸せな時間を送ればいいのよ」
と、母さんのベッドにもぐりこんだ時に言われたのを今でもはっきりと覚えている。
でも、ここ数日、私が見るあれは本当に夢なのだろうか――?
私は有悟君に視線を向ける。まだ眠っているようで寝息に合わせて僅かに布団が上下している。その姿に、有悟君が生きているということになぜだかホッとしてしまう。
きっと私は依存しやすいのかもしれない。生きているうちに恋人ができていたら、その人の存在だけで満たされてしまうほど、舞い上がったりしていたのかもしれない。
しばらくすると有悟君はゆっくりと起き上がり、私に向けて、「おはよう」とまだ眠さの残る声で挨拶をしてくる。私はそれに笑顔で返す。きっと客観的に見ると、犬が尻尾を振りながら目を輝かせているように、分かりやすく有悟君に対しては頬を緩ませていたことだろう。
朝ごはんを済ませ有悟君は部屋に戻ってきて、
「今日は朱香さんの家に行こうと思うんだけどいつごろ行こうか?」
と、尋ねてくる。私は両親のことを考える。きっと私が死んだことで仕事に今までのように追われることはないだろう。死んでから家で見かけた姿を見る限り、憔悴しきっていたようだった。あの状態では家から出掛けるのも、最低限になっていることだろう。
「いつでもいいと思うけど、昼過ぎあたりの落ち着いた時間の方がいいんじゃないかな?」
「わかった。そうなると、それまですることがないな……」
「普段は休みの日は有悟君は何しているの?」
「勉強か読書かな……基本家からあんまり出ないかな。朱香さんは?」
「私? 私は……学校の課題をしたり、予備校に行ったりとか……時々遊びに行ったりだとかだったかな」
私は思い出しながら答える。それはもう自分では経験できないことで、少し前まで当たり前だった日常が、私にはもう訪れることはないのだ。
有悟君はそんな私の思いを表情から読み取ったのか俯いてしまい、申し訳なさそうに目を逸らした。
「それで、昼過ぎまでどうするの? 私はこんなんだから有悟君がすることに合わせるしかないんだけれど……」
「じゃあ、家にいてもあれだし、どこかに出掛けようか?」
「うんっ!」
有悟君は部屋着から着替え、私のペンをハンカチで包んで鞄に入れた。
有悟君は家から出て、街の中心部に向かうバスに乗ろうとして、来たバスの中を見て乗るのをやめていた。きっと私に気を遣って、休日独特の混み具合から有悟君は公共機関での移動は避けた方がいいと思ったのだろう。代わりにタクシーを拾い、街中に向かった。
有悟君はタクシーを降り、人の少ないところに移動し、
「これからどこに行こうか?」
と、私に尋ねてくる。その隣で私は真面目に悩む有悟君の横顔を見ながら思わず笑みがこぼれる。
なんだか付き合いたてのカップルがデートをしようと待ち合わせ場所だけを決めて、何をするか決めていなくて迷っているみたいで――。
「朱香さん? どうして笑ってるの?」
「なんでもないよ。どうしようか? 駅ビルにでも行ってみる? 週末だし、何かイベントやってるかもだし」
私の提案に乗る形で駅ビルに向かうことになった。休日ということで人が多く、少し歩くのも嫌になる感じだったが、有悟君は上手く道の端や裏道を駆使して駅ビルにたどり着く。
駅ビル内のイベントスペースでは簡易ステージと客席が設置されていて、イベントが行われているようだった。
私と有悟君はそれを吹き抜けになっている二階の手すりに寄りかかって、覗き込むように見つめる。
どうやらギターの弾き語りをしているようだった。アコースティックギターを弾く男性と透明感のある声で有名な曲をアレンジして歌う女性の二人組で――無名のアーティストゆえか足を止めて音楽に耳を傾けている人は少数だった。
私も普段なら足を止めずに買い物をするなりしていることだろう。
有悟君は隣でステージを真剣な目で見つめながら、指で小さくリズムを取っている。
「有悟君はもしかしてあの人たちを知っているの?」
「いや、知らないよ。だけど、なんだか懐かしいなって……」
「懐かしい?」
「うん。僕がギターを始めるきっかけになった演奏を思い出したんだ。聴いた場所も演奏している人も違うけれど、こんな感じにたまたま聴いて、自分もやりたいって思ったんだよ。それにあのころは毎日が本当に楽しかった……」
有悟君はステージのイベントに過去を重ねている。そのどこか寂しそうな横顔に私は掛ける言葉を悩む。曲が終わっても何も話を切り出すことはできなかった。
自分の情けなさに肩を落としつつ、気分を変えるために上を見上げる。そこでふと視線が止まる。対面の三階を見知った顔が歩いていたからだった。私は思わず、
「あっ!?」
と、声を上げてしまう。
「どうしたの、朱香さん? 何かあった?」
有悟君は小声で私に心配そうに話しかける。
「いや、今、向かいの三階を沙苗……えっと、吉川さんって言った方が分かりやすいかな……いや、とにかく沙苗が歩いてて――」
「朱香さん、落ち着いて。呼び方は無理にこっちに合わせなくても分かるから」
「あっ、うん。とにかくね、沙苗が歩いていたのよ」
有悟君は私が言った場所の方を見上げるがもう姿は見えなくなっていた。
「ねえ、沙苗を追いかけてもいいかな? 隣にいた人が気になって――」
「いいけど、誰といたの?」
「はっきり見えたわけじゃないから、自信はないけど……あれはたぶん島野君だと思う」
「そう……二人には事件のことで話を聞いておきたかったんだ。追いかけてみようか?」
私と有悟君は急いで反対側の三階に移動して、辺りを見回す。しかし、人が多いうえに沙苗たちも移動したりしてるだろうし、どこにいるのか見当もつかない。
四階に上がり、有悟君は周囲をじっくりと見回す。そして、ある一点で目を止める。
「いたよ」
有悟君は三階に入っている本屋の奥を指差す。本棚で見えにくいが確かに沙苗がいて、隣には島野君が立っていた。なんであの二人が一緒にいるのか分からない。私が知らないところで何かあったのだろうか? 生きている間の出来事なら沙苗の性格なら真っ先に嬉しそうに報告してくるはずで、その記憶がないということは私が死んだ後の数日で何かがあったのだろう。
「朱香さん、どうする?」
「有悟君がいいなら、近づいてみよう。それで話ができるなら――」
「わかった。何か聞きたいことがあるんだね。がんばってはみるけど、僕が話しかけて吉川さんがまともに相手にしてくれるかが……」
「それはたしかにそうだね……でも、私と付き合っていたことにすれば沙苗は足を止めてくれるはずだよ。あの子、そういう話好きだから」
有悟君は私の顔をまじまじと見つめてくる。
「な、なに?」
「いや、朱香さんはそれでいいの?」
「いいも何も、有悟君は散々そういうことにして話聞きだそうとしてたじゃん」
「でも、吉川さんに話すとなると、僕なんかと付き合っていたなんて話が色んな人に広がるよ? それでもいいの?」
「僕なんかて言わないの。有悟君が相手なら、私はいいよ。まあ、もし有悟君が嫌って言うんだったら、無理強いはしないけど」
私はじとっとした視線で見つめ返す。有悟君は大きく息を吐き出す。
「わかった。話を聞きに行こう」
「よろしくね。私の彼氏さん」
有悟君は私の軽口に眉がぴくりと反応する。それと同時に口の端が自然に上がっていて――その反応が楽しくて、可愛くて、後ろを付いていく足取りはスキップをするように軽かった。




