〔2〕
ホールの混雑が厨房にまで届いてくる。月曜の夜とはいえ、客の入りは上々だ。
「瑞樹さん来てるねー」
空の盆を手に戻ってきた月沖がにやりと笑っていた。
つい先ほどもにんまり笑んだ柚流が、燐ちゃん来てるわよーと言い置いていったばかりだ。
軽くため息を落としながら目を眇めてみる。だが素の葦厨にも月沖が怯むことはない。案の定くふくふと笑ったままだ。
「さっき柚流さんにも聞きました」
「うん、知ってる知ってる」
それはそうだろう。柚流が来た時には月沖も厨房に居たのだ。まったくこの夫婦は、と呆れる一方で、この陽気さにかつて救われたことも事実だ。
ふと過去の記憶が蘇る。思い返しても苦く悔しいばかりの思い出だ。
「オーダーはいりまーす」
柚流の明るい声が厨房に届く。葦厨は瞬きひとつで不快な思い出を振り払い、気持ちを切り替えた。
「葦厨くん、瑞樹さんのドルチェ持っていく?」
混雑がひと段落した頃、見計らったように月沖が声をかけてきた。ステンレスの丸盆に載る白い皿にはコースメニューの最後につくティラミスが飾り付けられてる。
昼は単品で頼む瑞樹も、夜メニューはコースが主ということもあってオススメを注文したようだ。
どうする? と視線で問いかける月沖の言いたいことはわかっていた。ここで出て行かなければ、今夜はもう瑞樹と顔を合わせることはないだろう。
軽くでも挨拶はしておきたい。だが、ホールには瑞樹以外の客もいる。躊躇っている間に、月沖が苦笑しながら歩き出した。
「やっぱり僕が持っていくよ。瑞樹さんには葦厨くんは手が離せないって言ってお……」
「――いえ、おれが持っていきます。すみませんがここは」
「りょうかーい。こっちは僕が引き受けるから、ちょっとならお話してきていいよ」
するりと流れるような動きで丸盆を手渡された。上手く乗せられた気がするが、葦厨は満面の笑みを見せる月沖に軽く頭を下げてホールに向かう。
この決断を、数分のちには後悔することになった。捨てたはずの過去が――そこにいた。
テーブルの合間を客の邪魔にならぬように進む。見た目から受ける印象よりも葦厨の所作はずっと優美だ。
幾人かの女性客がちらちらと視線を向けてきていたが、その中のひとり、すらりとした身を細いボーダーのワンピースに包んだ女が、驚いたように葦厨を見上げていた。
「――彰人?」
緩くカーブを描く毛先が背中の中ほどで揺れている。指先まで隙なく手入れのされた容姿は美しいが、どこか作り物めいて見えた。
やや眉根を寄せ値踏みするように葦厨をみている二十代後半と思われる同席者の男は、おそらく葦厨がこれまでに散々見てきた手合いだ。育ちのよさそうな雰囲気は人当たりがよさそうだが、格下と位置づけた相手にはとことん傲慢さを発揮するタイプだ。同じ人当たりのよさでも月沖とは雲泥の差がある。
「知り合いか? 香澄」
「ええ、昔のちょっとした知り合いなの」
――よりにもよって瑞樹のきているこの日に、なぜ。
呼び止められた以上、無視をするわけにもいかない。こちらを見ていた柚流に目線で合図する。近づいてきた柚流に瑞樹のために用意したドルチェの皿を手渡した。
舌打ちした気分を堪え、作り笑いをはりつける。心中がどうであれ、それをすべて表に出してしまうほど葦厨も若くない。
「お久しぶりです」
「ええ、本当に。名前も聞かなくなったと思ったけれど、こんなところで働いていたのね」
ふっとあざけるような笑みが、紅をはいた唇に浮かぶ。だが、以前のように媚を売られるよりは多少ましだ。意外に冷静な自分を葦厨は他人事のように感じていた。
「まあ、イル・メログラーノの副料理長候補だった人がずいぶんと……いえ、ごめんなさい」
イル・メログラーノは国内でも有数の高級イタリアン料理店として知られている。葦厨は一時とはいえ、そこの副料理長候補に名を連ねていたことがあった。
「いえ」
「そうね、あなた程度の腕じゃあ仕方がないわよね。あなたにとってもイル・メログラーノにとっても早く縁が切れたのは幸運だったと思うわ」
なにを言われようが、いまさら怒りも湧かない。ただ、いけしゃあしゃあと宣う女に不快感だけは募っていく。
葦厨がイル・メログラーノを追われた原因、それもこれもすべてあることないことを、彼女が当時の料理長に吹き込んだからだ。
思い通りにならない葦厨に業を煮やした末のことだったようだが、まだ年若い葦厨を煙たく思っていた者も少なからずいたのだろう。イル・メログラーノの経営者一族に連なる彼女の言い分は聞き入れられ、葦厨は辞めざるを得なかった。
結局は腕よりも権力なのかと、馬鹿馬鹿しくなった。料理を作り事が苦痛になり、一時は完全にかかわることをやめようと考え色々な職を転々としたのだが、そのどれもに違和感を覚え、最終的に水商売に片足を突っ込み、荒んだ生活を送っていた葦厨を拾ったのが、高校時代に縁のあった月沖だ。
香澄が高慢さを隠すこともなくまだ何事かを喋っているが、葦厨の耳にはほとんど届いていなかった。
月沖の店に迷惑をかけるわけにはいかない。ならば、いまはただ突然あらわれた嵐をやり過ごすしかないのだが、香澄が口を閉じる気配はなく、他の客席からは不審げな視線が向けられている。ただ、瑞樹の座っているテーブルには背を向けているため、彼女の様子はうかがい知ることが出来なかった。
心配そうな面持ちで柚流が厨房に向かっているのを目の端に捕え、そろそろまずいか、と葦厨が制止しようと口を開きかけたとき、背後から冷え冷えとした声が発せられた。
「聞くにたえない」
驚いて振り向けば、腕を組んだ瑞樹が静かにたたずんでいた。これまで見たことがないほど纏う気配が冷たい。
「……誰、あなた?」
香澄の頬が僅かにひきつっていた。小柄なはずの瑞樹に威圧されている。
「あなたと同じ客だ。――つまりこの場において、わたしとあなたの立場は同等ということになる。そのうえで言わせていただくが――口汚い言葉をはかれるのであれば、店外でお願い致したい。あなた如きの言葉でここの料理がまずくなるはずもないが、わたしが不愉快だ」
決して大きな声ではなかったが、きっぱりとつよく言い切った瑞樹に香澄が口を噤んだ。
目を瞠る葦厨の隣に小柄な姿が並ぶ。瑞樹の香りと体温が近くなる。
「ああ――もしかしてこの人のいまの彼女?」
気圧されたことが悔しかったのだろう、納得がいったというように香澄が傲然と顎をあげる。あざけりの笑みがふたたびその口元に浮かんだ。
「違う、下衆のかんぐりはやめていただこうか」
眼鏡の奥に覗く双眸はひえびえとしている。普段の瑞樹からは決して考えられないが、どことなく最初の堅苦しい印象が思い起こされた。これもまた間違いなく彼女の一面なのだという気がする。
「おい、よさないか」
同席していた男がなぜか慌てたように香澄を制止した。瑞樹がそちらに向け軽く頭を下げる。
「加藤さん、ご無沙汰しております」
さらりと挨拶をする瑞樹に、葦厨が呆気に取られた。驚いたことに知り合いのようだ。
「いや、こちらこそ気が付かなくて申し訳ありません。ここはごひいきのお店でしたか」
「はい。よく利用させていただいております」
瑞樹が相手を好ましく思っていないのだろうことはすぐにわかった。やはりこれまで葦厨が見たことのないような堅苦しさで薄く笑んでいる。
香澄は唖然としたまま、同伴者と瑞樹の間でせわしなく視線を彷徨わせていた。
「もうお食事はお済のようですね」
テーブルの上に置かれた食後の珈琲を一瞥した瑞樹が、ゆるりと男に視線を据える。その意味を察したのだろう、伝票を手にして男がさっと立ち上がった。
「……ええ、香澄、僕たちはこれで失礼しよう」
どうしてよ、と不満げに口を尖らす香澄を促し、会計を済ませた男は瑞樹からのがれるようにそそくさと立ち去った。
一貫して声を荒げることは決してなく、只々冷静に見えた瑞樹が、ふうっと重いため気をつき、肩を落とす。葦厨を見上げ、ふと何か言いかけるように口を開いたが、こちらに注視していた隣席の女性客ふたりに気がついたらしく、お騒がせしてもうしわけない、と軽く会釈しそのまま何事もなかったように席に戻ってしまった。
気がつけば、平常どおりのざわめきが店内を満たしている。話し声に食事の音が、無事に事態がおさまったことを告げていた。
「すみません、お会計を」
いつの間にか席を立っていた瑞樹がレジ前にいる。柚流が申し訳なさそうに頭を下げると、慌てた様子で瑞樹が首を横に振った。
ありがとうございました、という声に、葦厨は考えるよりも先にレジに向かっていた。
「柚流さん」
「はいはい、こっちはまだ大丈夫だから。ほら、追いかけて」
「ありがとうございます。……すみません、これお願いします」
コックコートを手早く脱いで柚流に渡す。
店をでてすぐのところにある小さな公園で、とぼとぼと歩く頼りなげな後姿を見つけた。
「待ってください、瑞樹さん」
「え? 葦厨さん? お店は?」
駆け寄った葦厨に、足を止めた瑞樹が振り返った。正面に立つと、眼鏡越しの大きな瞳が葦厨を見上げてくる。
「大丈夫、客足も落ち着いてきていたし、オーナーがいますから」
店内はぎりぎり一人でまわせる混み具合だ。あまり長居はできないが、どうしても瑞樹に自分の口から謝りたかった。
「不快な想いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
途端、花がしおれるように瑞樹がうなだれた。
「謝らないでください。葦厨さんはなにも悪くない。寧ろわたしが、でしゃばった真似をしてしまって……私のほうこそ申し訳ありません」
ぽつぽつと語られる言葉には覇気がない。謝り方にまずい所があったかと焦ったのだが、そうではないらしい。
「いえ、正直、助かりました」
本心だった。あのまま香澄の嫌味に付き合うつもりはなかったが、客である以上、邪険にもできない。これが初見の客から言いがかりをつけられたというのなら対処のしようもあったのだが、なまじ面識があるだけに対応を間違えば厄介なことになるのは目に見えていたからだ。
早々に出て行ってもらえたのはこれ以上なくありがたかったのだが、余計な面倒ごとに瑞樹を巻き込んでしまったという後悔は残っていた。
「そうか、よかった」
ほっとしたように瑞樹が微笑んだ。
「あの男性と知り合いなんですか?」
相手も瑞樹のことを知っている様子だった。親しげな雰囲気ではなかったが、やはり気になる。
はっとしたようにくちをつぐんだ瑞樹の視線は、ゆるゆるとさまよっている。
「その……わたしの態度、わるかったですよね。驚かれて……ますか?」
「少し。でも格好良かったですよ」
ふっと笑う葦厨に、こわばっていた瑞樹の表情が緩んだ。
「私の祖父が大手出版社の大株主で……。どうしても出席しなければいけなかったパーティーで何度か会ったことがあったんです。あの人も出版関係者、です」
苦々しく眉根を寄せる、瑞樹からは、自身の出自をよく思ってないのだろうことが伝わってくる。葦厨は何もいえずに、俯く瑞樹を見下ろしていた。
「あの……! 突然なんだけれど、私、葦厨さんの作ってくれる料理が好きだ。初めはカッサータだったけれど、どれも美味しくて全部幸せな気持ちになる、から」
きゅっと握り締められた両手に瑞樹の決死の覚悟が見て取れた。ありったけの勇気をかき集めているのだろう。
不覚にも顔が熱くなった。腕を上げて自身の目元を覆う。不意打ち過ぎる。
「……すまない……語彙が貧困で……駄目だな、やっぱりしゃべるのは苦手だ」
黙り込んだ葦厨に、やや言いよどむ瑞樹の声が小さくなる。けれど、そのまっすぐな瞳は揺るがない。
最初の出会いを思い出す。抱きしめたくてたまらない。
「いえ……ありがとう、瑞樹さん」
葦厨は俯きながら、湧き上がる衝動を無理やり押し込めていた。
「葦厨さん?」
心配そうに覗き込まれ、細い指先が葦厨の腕に触れて、堰が切れた。気付いたときには両手を伸ばし、瑞樹を抱きしめていた。
「すみません……少しだけ、このままで」
身をこわばらせた瑞樹に囁く。それを如何受け取ったのか、胸の中にすっぽり納まる彼女は身じろぎすらしない。ただ、瑞樹の胸が激しく鼓動していることはわかった。
どれだけそうしていたかわからない。長いようで短い間――こくりと瑞樹の咽喉が動いた。おずおずと持ち上げられた手が、葦厨の背中をそっと撫でる。
「瑞樹さん、おれは」
貴方が好きだ――言いかけた言葉は、けれど低い振動音に遮られた。瑞樹の鞄が震えている。携帯電話の着信らしい。
名残惜しくは会ったが、瑞樹を解放するしかなかった。
「出てください」
葦厨が薦めると、瑞樹がすまなそうに鞄をあけた。取り出した携帯電話を一瞥し、小さく頭を下げると葦厨から距離をとる。
「ああ、はい、わかっている。大丈夫、これから戻る。うん、はい――じゃあ」
通話を終えた瑞樹が、ふうっとため息を落とした。電話の相手が気になりはするが、今の葦厨にそこまで踏み込むことはできない。
「すまないが今日はこれで失礼します」
「いえ、こちらこそ引き止めてしまって。送っていきたいところなんですが」
さすがに長く店を離れるわけにはいかない。まだ人通りもあるし大丈夫だという瑞樹と、せめて公園の出口まではと並んで歩いた。
小さな公園を抜けるまでの数分、黙り込んでしまった瑞樹の隣で、葦厨もまた押し黙る。
我ながら何をやっているんだと思う。まるで中学生にでも戻ったかのような不器用さだ。自分に呆れる。
「……? 葦厨さん?」
街路にでる直前、腕を掴んで引き止めた葦厨を、瑞樹が不思議そうに見上げた。
「また来てください。待ってますから」
考えあぐねた末の一言に、花が咲くようにふわりと瑞樹が微笑んだ。
「はい、必ず」
別れ際、頬を染めて確かに肯いたはずの瑞樹は――しかし、その翌日からぱたりと姿を見せなくなった。
「瑞樹さん、今日もこなかったね」
最後の客を送り出し、厨房の片づけを終えてテーブルを拭いていた月沖が、どうしたんだろうねえと首をかしげている。
瑞樹がランチを食べに来なくなって二週間が経とうとしていた。
「……そうですね」
ため息混じりの葦厨にも、瑞樹の足が遠のいた確かな理由はわからない。
やっぱり突然抱きしめたのがまずかったのだろうか、それとも他に何かしでかしてしまったのか――。
ここ数日、表面的には平静を装っているものの、葦厨の思考は堂々巡りにどっぷりはまり込んでいる。
「もしかして、この前、追いかけたときになにかした?」
妙な勘のよさを発揮した月沖が帰り支度中の葦厨を覗き込んできた。柚流は既に帰宅しているので店内に残っているのは葦厨と月沖だけだ。
「……してません」
「その間が怪しいなあ。本当のことを先輩に言ってごらん、葦厨くん」
「本当です」
「そっかあ。また来てくれるとうれしいんだけどねえ、常連さんも心配してたし」
葦厨も最近知ったのだが、幸せそうに食べる瑞樹の姿は常連客の中で密かに人気となっているらしい。
瑞樹自身は殊更目立つ格好をしているわけではないが、立ち居振る舞いのきちんとした所作が自然と人目を引く。そのどことなく近寄りがたい雰囲気が甘味を口にするときだけ驚くほど和らぐのだ。人間関係のごたごたから人を敬遠しがちになっていた葦厨ですら心惹かれたのだから、その威力は押して知るべしだろう。
「じゃあ、お先に失礼します」
「はい、お疲れ様ー。て、葦厨くん、顔色悪くない? 大丈夫?」
月沖に言われ、そういえば少し身体がだるいことに気がついた。風邪だったらまずい。厨房に立つ身にはご法度だ。
額に触れてみたが、幸い熱はなさそうだった。
「無理しないようにね。明日は定休日なんだからちゃんと休むこと。わかった?」
「大丈夫だと思いますが……」
「君の大丈夫はあまり当てにならないからなあ」
珍しく顔をしかめた月沖に、葦厨は反論できなかった。荒れていた時期を知られている以上、苦笑するしかない。
お大事に、という声に見送られ、葦厨は重い足取りで帰途に着いた。
翌朝。ベッドから降りたときに、妙なふらつきがあったので体温計を持ち出した。測ってみれば熱がある。月沖が危惧していたとおりだ。
とりあえず簡単に着替えて、近くの医院で診察をしてもらい、軽い風邪と過労、との診断を受けた。
「なにやってんだかな……」
病院を出てすぐ、自分に対する愚痴が零れ落ちた。いい歳をして自分の体調ひとつ管理できないとは情けなさ過ぎる。
水分を取って、薬を飲む前には消化のよいものを食べるように言われていたので、病院帰りに商店街のコンビニで飲み物と軽く食料を仕入れた。どうにも、熱が上がってきているようで、微かに視界が揺れる。
早く用事を済ませて帰ったほうがよさそうだ、とぼんやり歩道を進んでいた葦厨だったが、前方にある小さな喫茶店に目を向けた途端、ぴたりと足が止まった。
後姿ではあったが、見間違えようもない。店の前にいるのは瑞樹だ。二週間ぶりに見る姿は、どこか儚げにみえた。
声をかけようか、と迷っているうちに、やけに恰幅の良い若い男が親しげな様子で瑞樹に近寄ってきた。
いくつか言葉を交わしたようだが、瑞樹が逃げるように歩き出した。その後を男が追いかけていく。
――誰だあの男。
この近辺では見たことのない顔だ。ナンパかと思ったが、どうにもそういう雰囲気ではなさそうだ。前を行く二人に追いつくため、歩調を速めた。